過去編①義妹が帰ってきた日
美玖が全寮制の女子校に行ってしばらく経った中学2年生の頃から母さんの体調は急に悪くなった。がんだったらしいが今でもあんなに元気だった母さんが急に体調を崩したことについての理解ができないでいる。
中学3年生になって母さんが入院すると、俺は、美玖や父さんに連絡した方が良いんじゃないかと話をした。でも母さんは、二人とも信念に基づいて行動しているのにその足を引っ張りたくないと言って頑なに連絡することを拒んだ。
はっきり言うが、そんなのは母さんのエゴだ。美玖や父さんだって急に母さんが死んだと知ったらボロボロになるに違いない。その方がよっぽど足を引っ張ることなど中学生の俺でも分かった。
でも一度、言ったら絶対に聞かない母さんは決して俺の説得に耳を貸さなかった。結局、美玖はぎりぎりになって病院に現れ、凄く怒った様子で母さんと話をしていたが、父さんは間に合わなかった。
母さんがいよいよ危ないという状況になって、父さんに連絡したのだが海外にいることもあり、上手く連絡がつながらなかったのだ。だから結局、父さんが現れたのは母さんが死んでから5か月後、俺が道子さんの助けで母さんの葬式をすべて終えた後だった。
父さんは連絡もなしに急いで家に戻ってくると、まずまっさきに俺を抱きしめた。
「父さん。どうしたの?」
俺の問いかけに父さんは答えず、ただ何度も「ごめんな」「ごめんな」と繰り返していた。
そして次の日の朝、俺は父さんに起こされた。
食卓には、ハムエッグと焼きたてのパンがあった。
「これは?」
「何だ。不満か。まあ母さんには及ばないけど、俺の料理だってなめたもんじゃないだろ。いわゆる男の料理ってやつだ。」
「父さんが料理したの?」
「ああ。これからはお前との時間を大事にしようと思うんだ。いつまでも情けない父親でいる訳にはいかないだろ。」
別に情けなくなんかない。母さんだって父さんが情けないなんて絶対に思っちゃいないし、父さんは海外に戻るべきだ。
俺の胸にはそういう言葉が湧いてきたがそれを口に出すことはできなかった。今の俺にとって父さんがいるという事実が唯一の心の支えだったからだ。それは恐らく父さんも一緒だったのだろう。
つまりは傷のなめ合いをしていたのだ。俺達は。
それから、徐々に俺は部屋にこもるようになった。元々、友人が少ない俺は、学校に行っても誰とも会話することが少なくなり、たまに裕子や伊熊と話をする位になっていた。
あれほど熱心にやっていた勉強も手がつかなくなった。なぜなら俺が勉強していたのは父さんみたいな医者になりたかったからだからだ。そんな父さんが無力感に震えながら気丈に笑っている姿を見ていると、俺は自分の頑張る意味が失われていくように感じた。
父さんは仕事を休んでずっと家に居た。正月ですら帰ってこないこともいた父さんがずっと家に居て家事をし、慣れない様子で俺に料理を作っている。俺はそんな父さんに感謝しつつも、底知れない悔しさを感じていた。
こんなはずじゃないのだ。母さんだってこんなことを望んだはずじゃない。俺の胸にはそんな思いがうずまいていた。
高校の進学試験の日、俺は浮かない足取りで学校に行った。その頃にはもう学校に行かない日の方が多かったけど、その日は、裕子が朝早くから俺の家に来て強い口調で俺に学校へ行くように言ったからだ。
あんな怖い目の裕子を見たのはあの時だけかも知れない。高校の進学試験は、基本的に内部進学者は落ちない様になっていることもあり、俺は無事、進学が決まった。
進学が決まった夜。我が家の食卓は、すきやきだった。
「どうだ。結構、良い肉だぞ。旨そうだろう。お前の進学のお祝いだぞ」
「そうだね。」
「いやー。ちょっと危なかったみたいだが無事進学出来て何よりだな。まあ、男の子はそんなもんだ。」
「別に俺は落ちても良かったんだけどね。」
俺がつまらなそうにそう言うと、父さんはじっと俺の目を見て言った。
「なあ。学校はつまらないか?」
「どういう意味?」
「最近、あんまり学校に行ってないんだろ。この前なんて裕子ちゃんが随分、心配してたじゃないか。」
「まあね。」
「まあ、薫位の年頃じゃあ、勉強は面白くはないよな。でも、少し考え方を変えてみたらどうだ?」
「考え方を変える?」
「そうだ。薫にも夢があるだろう。その夢のためにどういう勉強が必要か考えてまずそれから始めてみるんだ。それは必ずしも学校じゃなくても良い。たとえば薫が海外の銀行に勤めてみたいって言うなら、父さんが英語を教えてあげるぞ。」
夢だと!?
そんなもの決まってるだろ。
「うるさい。」
「薫?」
「うるさいんだよ。」
俺は思わず叫んで立ちあがりそのまま部屋に入った。
外からは父さんの心配する声が聞こえたが俺は内側から鍵をかけて、何も答えず、眠りについた。
もうこのままこの部屋にこもっていよう。その時の俺は本気でそう思っていた。
☆☆☆
それから、二日くらいだろうか。俺は誰にも顔を合わせたくなくてずっと部屋にこもり続けた。
そして突然、俺の部屋の扉が開いた。
実は俺の部屋の鍵には欠陥があり、針金で簡単に扉を開けることが出来る。
この開け方を知っているのは世界にただ一人。
夜な夜な俺の部屋に忍び込んでは下らない話をしつこく聞かせ、興味のないドラマを見るように強要してくる面倒くさいやつ。
そう。美玖だ。
「兄さん。ちょっと臭いですよ。お風呂入ってないんじゃないですか。」
美玖はやつれた俺を見てこともなげにそう言った。
「何しに来たんだ?」
「何しに来たとは失礼ですね。高校からはまた兄さんと同じ高校に通うことにしたので、家に帰ってきたんですよ。」
美玖はそう言うと部屋のカーテンを開けた。まぶしい光が俺の目に飛び込んでくる。
「まぶしい。」
「そりゃまぶしいですよ。朝ですから。とりあえず換気しましょう。」
美玖はそのまま窓を開ける。俺は心の奥底から喜びがこみあげてくるのを感じた。
「美玖。お前。戻ってきたのか。これからはここで暮らすんだな。」
抱き着こうとする俺を美玖は制し、俺に言った。
「再会のお祝いはこれからしましょう。これからずっと一緒に暮らすんだから急ぐことはありません。それよりも兄さんにはやることがあるんじゃないですか。正直こんなに情けない人間だとは思いませんでしたよ。」
「やること?」
「ええ。何も怖がることはありません。兄さんの思うようにすればいいんです。大丈夫ですよ。これからは私がいるんですから。」
「美玖」
そうだ。俺は美玖の兄で母さんの息子だ。
ここでこんな情けない姿を見せる訳にはいかない。
俺は急いで階段を駆け下りた。
「父さん。」
台所で皿を洗っていた父さんは驚いた様子でこちらを見た。
「薫。部屋から出てきたのか?」
俺は机に手を置いて身を乗り出した。
「病院に戻れよ。父さんはこんなところに居て良い人じゃないだろ。」
父さんは俺を見て驚いた表情を見せた。
「どうしたんだ。急に?」
「俺の夢は医者になることだ。それもただの医者じゃない。父さんみたいに海外に行って、恵まれない人を助ける。そんな立派な医者になることなんだよ。」
「薫。」
「俺はさあ、もう大丈夫だよ。美玖もいるし、二人で上手くやっていくさ。」
父さんは俺の言葉に複雑な表情を見せた。
「でも、それだとお前たちのそばにいてやれないじゃないか。また母さんみたいなことになるかもしれない。」
「それがどうしたんだよ。父さんは昔からそうだ。小さい頃から肝心な時に家に居たことなんてない。父親らしいことなんて何一つしてくれてない。でもそれで良いんだ。俺も美玖も、それに母さんだって、それに不満を抱いたことなんて一度もない。」
「薫。無理しなくて良いんだ。幸い貯金もある。これからはお前たち二人と家族三人で一緒に過ごしていこう。」
「いやだ。そんな悲しい顔をした父さんとなんか暮らしたくない。俺は世界で活躍してる父さんが好きなんだ。そんな父さんだからこそ俺は医者になろうと思ったんだ。そんな父さんだからこそ、俺の誇りだったんだよ。」
気づくと俺は泣いていた。ふと見ると父さんも泣いていた。
しばらく二人で泣いた後、父さんは言った。
「分かった。やっぱり俺は病院に戻る。この家はお前に任せて良いな。」
俺が静かにうなずくと、恐らく2階から様子をうかがっていたのであろう美玖が降りてきた。
「兄さんではなく、私に任せてください。どうせ兄さんには生活力がないのでしょう。料理とかも私がやらなきゃいけないと思うと今から憂鬱ですよ。」
美玖の言葉に父さんは笑って言った。
「美玖ちゃん。生活費はいくらでも出すから外食でも大丈夫だぞ。」
「はあ。それは駄目人間の発想ですよ。栄養も偏りますし、外食なんて論外です。これからは私が作ります。」
そう言うと美玖は台所に向かった。
「美玖。お前。料理できるのか?」
「当たり前じゃないですか。これでも私、兄さんが思ってるよりずっと家庭的な女なんですよ。」
この後、丸焦げになった何かが出てきて、全食外食になったのはまた別の話である。




