39話 霧に潜むは
----ドートレス・フェクダ視点----
「ちっ霧が濃すぎて、海面すら見えやしねぇ」
船の縁に身を預けながらこれから上陸する場所に目をやるが、視界に映るのは霧だけ。
だが、俺たちにとっては好都合だ。この1メドル先すら覆う白い闇が、荒嵐の北海の荒波を越えてきた5000の兵を丸ごと隠してくれる。
仕事はしやすそうだな。
気に食わねぇが、あの野郎が来ている以上、前回に続いての失態は明確に死を意味する。それを踏まえれば、幸先が良いと思うしかねぇな。
「んで、ここが白の湿地帯、熊公どもの巣ってわけね」
奇襲部隊100名を連れて上陸。
歩みを進めるごとに霧の湿気を吸った袖が、肘から先の無ぇ左腕に纏わりついてうざってぇ。
失くした腕が疼くたび、あのクソ餓鬼の顔がちらつきやがる。……やめだ。今は目の前の仕事だ。
時刻は明の五刻、東の空がうっすらと明るくなっている気がするが、濃霧のせいで定かじゃねぇ。だが、目を凝らしてやればうっすらと灯りが滲んでる集落が見える。
「くそ、あの寝腐れ野郎が珍しく穴倉から出てきたと思ったらお守り役が俺かよ。おい、ドゥーベ、分かっているだろうな。殺すなよ!」
「んあ?まぁ、できたらそうするが期待はするな。ギヒッ!」
しかも、こいつと組まされるなんてな。
『牙星』ガロン・グリーズ・ドゥーベ。またの名を『狂獣司祭』。
新入りに押されて序列は6位に落ちたが、戦闘面だけで言えばこいつほど頼りになる奴はいねぇ。
が、それを差し引いても今回に限っては制御不能の殺人狂のデメリットが勝つか。
さて、嘆いていてもしゃあねぇ。俺もまだ命が惜しいからな、気張って「お貴族」どもの慰み者をとっ捕まえるとするか。
「んじゃ、お前らへますんなよ。足場は固めてやる」
俺の放つ魔力が、湿地帯を凍てつく大地へと染め上げる。
「行くぞ」
----ダン・ガオレン視点----
今日もまた、白の湿地帯の朝は霧に包まれている。
俺たち熊人族の都である「ウルシベーナ」は沼の上にある。先人が沼地へ深く打ち込んだ無数の杭に支えられた高床の家々を木道が結び、その下を汽水がゆるやかに流れていく。夜明け前に東の干潟へ出た漁り手たちが、朝市に貝と魚を運び込む頃、霧は未だ晴れることなく木道の上を這うように流れていた。
居住区がまだ眠りから覚めぬ中、都の南東に位置する市場はにわかに活気づき始めている。
「おう、王様!今朝はいいのが揚がったぞ、持ってけ!」
「ありがたい。だが商売ものだ、ちゃんと金は払う」
「がっはっは!相変わらず堅いなぁ、坊は!」
バシバシッと2度ほど俺の背中をたたいて去っていく漁師の背中を見送る。
ふっ、坊ときたか。即位して半年、市場では未だにこれだ。
父の代から都で店を張る者たちにしてみれば、俺は膝の上で貝の剥き方を教えた子どものままなのだろう。
悪い気はしない。むしろ、この距離の近さこそが白の湿地帯の宝だと思っている。
ただ、今朝は少しばかり市場の声がおとなしいな。この時期にしては珍しく濃い霧が市場の温度を奪っているかのようだ。
いつもなら潮の引き際を狙う海鳥たちで騒がしくなる刻限だというのに声が聞こえない。
「……気のせいか」
父上ならば、こんな朝をどう見ただろうか。
――常に民に、国に気を配り、些細な変化を見落とすなよ。民あって国、国あっての王。民こそがお前が導き守るべき宝だ。
病の床で、父――勇壮なる『白掌熊』ナバン・ガオレンは、そう言い遺した。その名を継いで半年、俺にはまだ足りないものが多すぎる。
「王よっ!!」
木道を蹴る音が、市場のざわめきを引き裂いた。
振り返ると、若い男が転がるように駆けてくる。泥まみれで、肩で息をして、足元は裸足だ。あれは確か、北岸のトゥーレの村の――
「王よ、軍です!人族の、軍がっ……!」
男は木道に崩れ落ち、それでも言葉を止めなかった。
「夜漁から帰り、岸に、船影が……数えきれないほどの……戻ったら、村が、村に火が……!」
市場から音が消えた。
俺は男の傍らに膝をつき、その肩を掴んだ。助けを求め走り通してきた男の息は絶え絶え、恐怖と混乱で体は石のように固く、冷たかった。
「トゥーレの民は?」
「わかり、ませんっ……ただ、遠目に、皆、縛られて、船の方へ……」
「連れ去られたのか?」
「わかりません、なにもっ、うぅっ」
「すまんっ、分かった。まず、息をするんだ、ゆっくりでいい」
ひと呼吸、ふた呼吸、男が呼吸を整えているのを見つめながら思案する。
いったい人族のどこの組織だ?アークエルド聖王国の裏組織が有力か。
となると、目的は……
「それと、王よ、岸が……岸辺の沼が、凍っていました。この季節にです。俺は、あんなものは見たことが……」
凍った沼、人族の軍、おそらく北の海を越えてきたであろう船影――
「――鐘を打て!」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「北岸の全ての村に触れを出せ。民は身ひとつでいい、都へ退かせろ。戦士団は第一橋に集結。木道の落とし場は全て人を付けて、俺の指示を待て!」
都の戦士たちが弾かれたように走り出す。沼の都は入り口となる木道さえ落とせば水に守られた砦になるよう、父の代から造られてきた。
「伝令だ。青の草原のリツィアナ殿へ。『白の湿地帯に人族の軍。数は不明、およそ千を下らず。救援を請う』と」
「はっ!」
「それと黄の山脈の関所へ。シコウ殿は父の友だ。関所から赤と黒へ、必ず報せを繋いでくださる」
伝令たちが散っていくのを見届けてから、俺は木道の手すりを掴んで北の空を睨んだ。霧はまだ、都の屋根の上に低く垂れ込めている。あの白の向こうで、いま何が起きているのか。
トゥーレの浜の貝は都いちばんの粒だと、市場の者たちがいつも自慢していた。俺は奥歯を噛んだ。
――民こそがお前が導き守るべき宝だ。
父上、連れ去られた者たちを取り戻し、あなたが愛したこの国を守って見せます。
王のやるべきことは変わらない。
「……民は、渡さん」
掌に爪が食い込むほど、拳を握った。
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