8話
ようやくアリーセが足を止めたのは、男たちの声が聞こえなくなってからだ。抱えていた袋が随分と軽く感じ、ぐっしょりと濡れた袋の口を開き、覗き込んだ。
そこにいたのは、全身をイボと痣に覆われた、四つ足の小さな生き物。
大粒の涙がイボの間を伝わり、その度に体が削れるように小さくなっていく。体が溶け始めているのがわかった。
アリーセは袋からスクォンクを取り出し、あやすように抱き締めた。
「泣かないで。もう大丈夫だから」
——ゥォオン
ポロポロと溢れる雫は止まらない。ぬるりとした感触に、アリーセは早くアルノルドたちの元へ向かわないと、と再び足を動かし始める。
土を蹴り上げ、木の枝を弾く。指の隙間から溢れる雫の感覚が、嫌でも死の気配を感じさせた。
(ああ、嫌だっ……駄目だっ! このままだと溶けきってしまうっ!)
じんわりと滲む涙が視界を歪める。
あっと思った瞬間、アリーセの体が宙に投げ出された。剥き出しの木の根が、慣れない足を引っかけたのだ。
浮きかけたスクォンクの体をギュウと抱きしめ、地面を転がる。膝を擦り、髪が絡む。マントが巻きつき、息が苦しかった。
それでもアリーセはスクォンクを離さなかった。
ようやく止まった体を起こそうとして、足を捻ったことに気が付く。鈍い痛みが右足を襲い、絶望する。これでは、もう走れない。
挫けた心が、エヌマエルを呼びそうになる。しかし、
「っ……ま、け、てっ……たまるかぁ……!」
アリーセは痛みを堪え、立ち上がった。
初めは子犬ほどの大きさだったスクォンクも、今では片腕で抱けてしまえるほど小さくなってしまっていた。そんな哀れな生き物を抱え直し、アリーセは杖を地面に突き立てる。
震える体を叱咤し、一歩ずつ、ゆっくりと歩き始めた。
足がズキズキと痛んだが、胸に巣食う憐憫の痛みより遥かにマシだった。
「すぐに、アルノルド様のとこに、行くから、ね」
自身を奮い立たせるよう、アリーセはスクォンクに話しかける。震えながらボロボロ涙を流す姿は、幼い頃の自分を見ているようだった。
一歩ずつ前へ進むアリーセ。しかし、心ばかりが逸り、次第にそれは焦りへと変わっていく。痛みと悔しさが、ジリジリとアリーセの心を蝕んだ。
そしてついに、背後からボソボソと男たちの声が聞こえ始める。アリーセは足元に滴るスクォンクの涙を見て、彼らの道標に気付いた。
——が、もう遅い。
「見つけたぞ、クソガキ!」
男の荒い怒声に、アリーセの肩が大きく跳ねた。
「さあ、早くそいつを寄越しな! 溶けちまったら使い物にならねぇからな!」
再び真っ暗な銃口が向けられる。威嚇用のそれは決して高い殺傷能力を持っているわけではない。
しかし、当然当たればただじゃ済まないだろう。
アリーセは彼らから遠ざけるようにスクォンクを抱え込んだ。呪文を唱えるだけの余裕もなく、逃げる足もない。それでも、この子だけは渡すわけにはいかなかった。
反抗的なその態度に男たちは苛立ちを覚えたらしい。小さくない舌打ちが、静かな森の中に響く。
「ああ、そうかい。なら、お嬢ちゃんも魔獣と一緒に売り物になっちまいな」
引き金にかかった指が、僅かに曲がる。ギュッと目を閉じ、アリーセは襲い来るであろう痛みに覚悟を決めた時であった。
森の中を何かが駆け抜ける音がして、すぐさまそれは草陰から飛び出した。
「い、犬!?」
男の声が聞こえると同時に、低い地鳴りのような声が辺りに響いた。パッと開いたアリーセの深緑の瞳に映ったのは、牛と見紛うほど大きな体の犬だった。
男に襲いかかり、巨大な前足で銃を弾き飛ばす犬。男たちが情けない悲鳴をあげながら後退すると、それはアリーセを庇うように立ち塞がった。
「やあやあ、間に合ったようだね」
誰もが突然現れた獣に震える中、なんとも呑気な声が響く。
しかし、どうしてだか声の主の姿は見えない。
「だだ、誰だっ!?」
「私はしがない森番さ。名乗るほどの者じゃない。むしろ、君たちが警戒すべきは目の前の彼——クー・シーの方だ。彼はこの森の番犬でね。君たちの度重なる侵入に、大層ご立腹のようだ。私が声をかけたら、すぐに協力してくれたよ」
クー・シーは鋭い牙を見せ、再び唸り声を上げる。
男の片割れが、腰を抜かした。もう一方は、弾き飛ばされた銃を探そうと周囲を見渡しているが、この暗さだ。見つかるはずもない。
聞きなれた声が脅すように続ける。
「クー・シーの唸り声が三度響いたら、それは狩りの始まりだ。先ほどの戯れとは比にならない暴力が君たちを襲う。私の加勢なんかいらないほどにね」
どうする、と問いかける余裕の声に、すでに戦意を失った男たちが勝てるはずもない。彼らは大人しく投降した。




