7話
——ォオオオオン……
先ほどの声とは、天と地ほども違う、悲しみに溢れた嗄れ声が森中に響き渡る。ロルフに聞くまでもない。本物のスクォンクだ。
アリーセは全身が粟立ち、ロルフは瞠目している。男たちの安い泣き真似が再び聞こえ始めた。呼応するスクォンクの声。もう一刻の猶予もなかった。
二人は顔を見合わせ、どちらともなく走り出す。
森を熟知するロルフが先を走り、アリーセがその背を追った。しかし、目が慣れ始めたとはいえ、カンテラを消した夜の森はあっという間にロルフの姿を飲み込んでしまう。
「こっちだ」
響くロルフの声を頼りに、アリーセは再び力強く地面を蹴る。追いついた彼の額には、汗がびっしょりだった。
「大丈夫?」
思わず案じたアリーセに、ロルフは上がった息で「多分な」と答える。
「お前、体力あるなぁ……」
「元気が取り柄なので」
はにかむアリーセに、ロルフは彼女の魔力事情を思い出し、納得する。と同時に、これなら思ったより早く小屋に戻れる、と安堵した。
しかし、
——ォオオ、オオオオオオン!!
「……っ!?」
乾いた発砲音。直後、一際大きなスクォンクの声がし、すぐさま不自然に途切れた。ロルフが足を止め、来た道を戻ろうとする。
そんな彼を止めたのは、やはりアリーセの手だった。
「戻ったら駄目。それより、早くアルノルド様の元へ戻らないと」
冷静なアリーセの声に、ロルフは「わかってるっ!」と吠えた。しかし、その表情は苦悶し、足は鉛のように動かない。
硬く握られた拳を見て、アリーセは小さく唇を噛んだ。
ふ、と息を吐いた。そして、泣き出しそうなロルフの手をそっと包み込む。
「だから、ロルフは走って。スクォンクのところには、私が向かうから」
驚きの声を上げるロルフには、アリーセは杖をくるりと回す。金具を付け直し、再び半回転させると、飾りがチリンと音を立てた。
チリン、チリン、と小さく響く金属音が、アリーセの心を落ち着かせる。トドメに深呼吸を一つ。
「じゃあ、また後で」
駆け出そうとするアリーセを待てよ、と引き止めたのはロルフだ。自身の首から何かを外した彼は、そのまま彼女の首にかけた。
「世界樹の琥珀だ。これがあれば、森が味方をしてくれる」
貸してやる、と不器用に笑うロルフ。精霊の加護を願う彼に感謝を告げ、アリーセは今度こそ大きな一歩を踏み出した。
向かうのは、小さな泣き虫の元。
初めて入った夜の森で、アリーセは迷うことなくスクォンクの元へ走る。道筋は、ロルフの置き土産が教えてくれた。
森に住む悪戯っ子たちが、黙って目的地までの標を示してくれるのは、胸元で揺れる琥珀のおかげだろう。姿の見えない隣人への感謝を胸に、アリーセも黙って疾走する。
チリチリと音を立てていた杖が黙ったのは、そのすぐ後だ。
先ほどよりもずっと短い時間で、川沿いまで戻ったアリーセ。ポツポツと置かれていた白い石が途絶え、アリーセは先ほどの密猟者がすぐ近くにいることを悟る。
草陰に隠れるよう体を小さくする。地面を這うように進むと、男たちのボソボソとした声と啜り泣くスクォンクの声が聞こえてきた。
指先が濡れた地面に触れる。点々と落ちている涙の跡に気付き、アリーセは胸が締め付けられた。
息を殺し、男たちを覗き見る。先程まで武装一色だった彼らは、見慣れない麻袋を肩に背負っていた。袋からはポタポタと雫が垂れ、中にスクォンクがいることは、確認しなくてもわかった。
底冷えするような男たちの声が聞こえてくる。
「本当にチョロいシノギだぜ。こんな鈍臭い奴を捕まえるだけで、金が手に入るんだからな」
「とはいえ、徹夜で間抜けな声真似をするのももう飽きたな。さっさとこの気持ち悪い生き物を売り捌いて、あったかい布団で眠ろうぜ」
ゲラゲラと木霊する下品な笑い声に、杖を握る手が震えた。左手で琥珀に触れ、小さな声で覚えたての呪文を唱える。
しかし、いくらアルノルドの言葉を真似ても、森が動いた気配は感じなかった。
(駄目だ。私の言葉じゃ、魔性生物は力を貸してくれない)
琥珀のおかげか、自然との結び付きが強化されていることは間違いない。しかし、それでもアリーセの言葉が常に彼らへ届くわけじゃない。
アリーセは自身の無力を恥じた。だが、今はそんな場合じゃない。
目の前で皮算用を始める男たち。義憤がアリーセの小さな胸で熱を持つ。
ただ静かに生きていた小さな生き物の尊厳が、無情な人間に踏み躙られている。そんな悪意に出会ったのは、初めてだった。
「《我らの隣人たる精霊よ、愛すべき友人を救うため、水の力を貸したまえ》っ……!」
泣き出しそうになる心に魔力を乗せ、アリーセは使い慣れた呪文を叫ぶ。アリーセが振るった杖がチリンと音を立て、男たちがバッと振り返った。
「なっ……! い、いつの間にっ!」
一仕事を終え、油断していたのだろう。男たちが腰元の短銃を抜き、銃口をアリーセに向ける。が、その時にはもう遅い。アリーセの呪文は川辺に住む精霊たちの耳に届いていた。
バケツをひっくり返したような水が、どこからともなく降ってくる。
これが魔術の苦手なアリーセの精一杯。エヌマエルなら、同じ呪文でも川を氾濫させるだけの効果を発揮させただろう。
しかし、そんな比較は何の意味も持たない。いつもなら脳裏をよぎったであろう思考も、今のアリーセにはなかった。
ただ、彼女は冷や水を被った無防備な男たちの隙をついて、強く地面を踏む。ほんの数メートルの距離を一気に詰め、彼らが落としたスクォンクの袋を拾うと、そのまま森の中へ逃げ込んだ。
「まっ……待て!」
「くそっ!」
男の声が背後からアリーセを追いかける。しかし、アリーセの足は止まらない。
駆け足には自信があったが、緊張でいつもより息が苦しい。心臓が耳元で鳴っているようだった。それでも、走り続ける。枝葉がアリーセの頬を打ち、身の丈より長い杖が走りを邪魔する。
それでも、止まれなかった。
(やった、やってやった……!)
奇妙な高揚感が、アリーセの恐怖心を吹き飛ばす。先程までの無力感も消えた。
今はただ、この結果を誰かに伝えたかった。




