5話
エヌマエルの使う白魔術は、元々自然魔術と呼ばれる四元素に基づく基礎魔術だった。魔術師を目指す者が最初に学び、誰もが使えるようになるもの。それ故に、自然魔術は長い間、魔術師から軽んじられてきた。
だが、その便利で使い勝手の良い基礎魔術を、才能のある魔術師にしか扱えない専門魔術にしたのが——稀代の天才、エヌマエルだ。
エヌマエルは、生まれ持った膨大な魔力と勤勉さで自然魔術を極め、他のどの専門魔術にも負けない魔術だと周囲に認めさせた。
基礎魔術と呼び分けるため、高度な自然魔術は『白魔術』と呼ばれるようになり、白魔術を学ぶには一定以上の魔力量がなければならないと定められた。
自然魔術すら上手く扱えないアリーセの魔力量では、決して届かない領域だ。
「……アリーセ」
かける言葉を失うロルフに、アリーセは慌てて両手を振った。
「あの、お気になさらず! 最初からわかっていたので!」
アリーセは、できるだけいつものように声を出す。
「師匠の元にいられるのは、見習いの間だけ。試験に受かって、見習いを卒業できたら……自分に合った専門魔術を定めます」
にっこりと笑う小さな少女を見て、魔術師は「そう」と静かに頷いた。
それから、重たい空気を振り払うように笑顔を取り戻し、あっけらかんとした調子で言った。
「まあ、これは君とエヌマエルが決める事だからね。僕たちに挟める口はない」
無責任にも聞こえる言葉にロルフは非難するような声を上げたが、アリーセはホッとしたように微笑む。これ以上、突っ込んだ話をされたら、うっかり大粒の涙が溢れてしまったかもしれないからだ。
それまでの空気が嘘のように、その後の夕食は穏やかに進んだ。
たわいもない話で笑ったりしながら、アリーセは久しぶりに温かい食卓を囲んだ気がした。
アリーセが食後の片付けを手伝っていると、一人くつろぎタイムに突入したアルノルドが「そういえば」と何かを思い出したように声を上げた。
「ロルフくん。例の件はどうだった?」
「ええ、魔術協会に相談してきました。後日、改めて森を見に来てくれるそうです」
そっか、と頷くアルノルドに、アリーセは食器を片しながら「何かあったのですか?」と訊ねる。
「うん、ちょっとね。最近、森の様子がおかしいんだ。住人たちが少し落ち着かない様子でね」
彼の言う『森の住人』が、メェルカの森に生息する魔性生物を指していることは、アリーセにもわかった。ロルフが王都にいたのは、そういう目的もあったのかと一人納得する。
「というわけで、急に夜中に出掛けることがあるかもしれないけど、アリーセちゃんは気にしなくて良いからね。明日に備えて、ぐっすりお休み」
ウィンクを飛ばすアルノルドに、アリーセは「ありがとうございます」と礼を述べた。
言われた通り、アリーセはいつもの就寝時間になると割り当てられた二階の部屋に入った。
一日がやけに長く感じ、アリーセは早々にベッドへ潜り込む。疲れた身体が柔らかいシーツに沈み、厚手のパッチワークがアリーセをずっしりと包み込む。
すぐにうとうとと、睡魔がアリーセを微睡みの中に連れて行った。
遠くでホゥホゥとフクロウの鳴く声がする。風が木々の間を通り抜ける中、ふとアリーセの耳に奇妙な声が聞こえ、落ちていた意識が俄かに浮上する。
ォオーン、とオオカミの遠吠えとも異なる哀しげな響き。
心臓がギュッと掴まれるようなその音に、アリーセは体を起こした。カーテンの隙間から見た森は、呑み込まれそうなくらい深く、どこまでも暗い。
初めて見る夜の森に、アリーセはふるりと体を震わせた。階下に降りると、淡いランプの中でロルフが一人、暖炉に当たっていた。膝の上には一冊の本が開かれている。
「眠れないのか?」
アリーセに気付いた彼がそう問いかける。アリーセは小さく首を横に振った。
「外で声がしたの。子供が泣くような、悲しい声」
迷子かもしれない、と言うアリーセの話を聞いて、ロルフは少し考え込む。
「多分、スクォンクだ」
「スクォンク?」
「魔性生物の一種だよ。……この時間に活動するなんて珍しいな」
ブドウのような目が静かに瞬き、ほっそりとした手が本をぱたんと閉じた。
目立った頭を隠すよう、色の暗い外套を羽織り、コブの付いた杖を手に取るロルフ。カンテラに火を灯すと「少し様子を見てくる」と言った。
アリーセはパッと目を輝かせる。
「私も行きたい!」
「行きたいって……別に面白いものは何もないぞ。辺りを見回ってくるだけだ」
「それでもいいよ。夜の森なんて、入るの初めてだもの」
そう言うや否や、アリーセは自分のマントと杖を取りに行く。はあ、とため息をついたロルフだったが、その表情はどこか穏やかであった。
森に入ると、しんとした静けさがアリーセの鼓膜を刺激した。
一歩先も見えないような暗闇で、ロルフの持つカンテラだけが足元を照らす。頼りないその光は、ロルフの歩調に合わせゆらゆらと揺れた。
「おい、あんまりくっつくな。歩きにくいだろ」
「ご、ごめんなさい……思ったよりも暗くて」
上着を掴んでてもいいか、と問うアリーセに、ロルフは呆れたように「好きにしなよ」とそっぽを向いた。
「そんなんで、よく『行きたい』なんて言えたな」
「うっ……だって……」
思わず、アリーセは口籠る。
夜の森も、白鳩以外の魔性生物も、アリーセの好奇心を大いに刺激した。
しかし、いざ飛び込んでみると、夜の森は想像以上に暗くて、やけにひんやりとしている。時折聞こえる夜鳥の羽ばたきが、一層心細さを際立たせた。
アリーセは周囲にきょろきょろ視線を彷徨わせながら、さくさく進むロルフの後を恐る恐るついていく。
「ねえ、ロルフ。スクォンクって、どんな生物なの?」
恐怖を紛らわせようと、アリーセは話を振る。
「スクォンクは、ただの泣き虫だ。イタズラをするでも、厄災をばら撒くでもない。ただ、自身の醜さに泣く、可哀想な生き物だよ」
淡々と、しかしどこか憐れみを含んだ説明に、アリーセは言葉を失う。
えっと、と次の言葉を探していると、ロルフが「だから、スクォンクの泣き声はいつものことなんだ」と何でもないように続けた。身構えていたアリーセは、その言葉にホッと安堵の息をつく。
「いつものことなら、そんな心配することもないね」
「……だから言っただろ。ただの見回りだって」
怯えながらもどこか楽しそうなアリーセに、ロルフは小さなため息を吐いた。




