38話
汽笛が鳴り、帽子を振りながら別れを告げる人々。
少しでも長く見届けられるようにと、明るい色が右へ左へと揺られている。あの船に乗る人たちは、いつまで彼らの想いを見ていられるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、アリーセはメルズの街を歩く。朝の光をキラキラと反射する水面の明るさが、今はただ眩しかった。
メルズの街は水路が多く、本当は歩くよりもボートを借りた方が早い。しかし、今のアリーセは船頭と会話する気力がなかった。日が経つにつれ、ヘルツとの別れがずしりと心にのしかかって来たのだ。
適当な紐を通し、カバンに括り付けた鈍色の拡大鏡。元気いっぱいな太陽の光を反射させながら、アリーセの歩みに従ってくるくると回転した。
アリーセは今まで以上の必死さで、エヌマエルの行方を訊ね歩いた。鬼気迫る様子は、まるで彼にとんでもない重大な何かがあるようだった。
しかし、そんなことはない。エヌマエルの状況は、アリーセがユピトルを離れる前と何も変わっていない。
変わったのはアリーセの方だ。たくさんの出会いと別れを経験した。協力や祝福を惜しみなく与えてもらうことも、この上ない犠牲を支払うこともあった。
それらの出来事が、早く成果を出さなければという焦りに変わるのは、ひどく自然なことだった。
ようやくエヌマエルの話が聞けたのは、声をかけた人数が三十を越えた頃だった。
「白い豪華なローブを羽織った、三つ編みの魔術師だろ? ああ、確かに西大陸行きの船に乗るところを見たよ」
逞しい腕で荷物を運ぶ一人の船員が、アリーセにそう言った。顎に手を当て、詳しく思い出そうとする口ぶりから、比較的最近のことのようだ。
(やっぱり、師匠はザトロンに向かったんだ)
奇妙な確信を持ったアリーセは次の出航について訊ねる。今日の夕方に出発するという船を教えてもらい、アリーセはすぐさま乗船券を購入した。
チケットを手に入れると、夕方まで時間が空いてしまった。何かしないと、とアリーセは周囲をきょろきょろ見渡して、再び手当たり次第に情報収集を始める。
(師匠は、お母さんを探していた。……なのに、何で私に何も言わなかったんだろう)
まるで仄暗い何かをあの陰気な村からもらってきたように、アリーセの心内に暗い影が差し込む。ギュッと小さな手で胸元を押さえ、アリーセはざわつく気持ちを落ち着かせようとした。
最近はいつもこうだった。シャルロッテのことを考えようとすると、心中がささくれるようだった。
あれほど憧れた母の新しい姿を知る度、アリーセの中で折り合いをつけた筈の気持ちが浮かび上がる。何故、どうして、と子供のような質問が次々とアリーセの喉奥につっかえた。
張り裂けそうな胸を抑え、街中でしゃがみ込むアリーセ。そんな小さな少女の姿が目についたのだろう。突然、柄の悪い男たちがアリーセに声をかけてきた。
「大丈夫かい、お嬢ちゃん。具合が悪いなら、どこかで休むかい?」
ニヤニヤとした下卑た笑み。アリーセはくさくさした気持ちのまま、ふいっと顔を背けた。結構です、と震える声で答えた。
しかし、相手が悪かったようだ。彼らはアリーセの気持ちなんてこれっぽっちも気遣わない。それどころか、彼女の反応から、アリーセが大分弱っていることを察したようだ。
三人の男たちは互いの顔を見合わせると、何やらヒソヒソと耳打ち始める。
一番年若い、人好きのしそうな優男がアリーセに手を伸ばした。
「それじゃあ、ちょっと俺たちに付き合ってよ。街に来たばかりで、右も左もわからないんだ」
アリーセの腕を掴み、無理やり立たせる男に小さな悲鳴をあげる。
「痛っ……ちょっと、やめてっ……!」
「おいおい、大袈裟な反応するなよ。恥ずかしがり屋さんなのか?」
男たちを振り払おうとするアリーセ。しかし、男たちはそんな彼女を両手で押さえ込んだ。
皆一様に笑顔を浮かべているが、決して好意的なものではない。むしろ、アリーセの尊厳を踏み躙るような、嘲りを含んだ表情だった。
小さなアリーセの体を引っ張り、ここではないどこかへ連れて行こうとする男たち。
アリーセが大きな声で助けを呼ぼうとした、その時——……
「女の子の扱いがなってないぜ、おっさん」
軽やかな声と共に、細身の青年が空から降ってきた。
「なっ……うぶっ!」
「こ、このガキ! どこから来やがったっ!?」
驚く優男の顔を踏みつけ、身軽に着地する青年。仲間たちが声を上げる中、アリーセの細い腕から男の手が離れた。
あっとアリーセが声を上げると同時に、青年は男たちの間をすり抜けてくる。
「ほら、行くぞ」
優男と同じようにアリーセの手を掴む青年。しかし、その手に嫌な感じは一切しなかった。
青年は反対の手に持ったナイフをチラつかせながら、男たちを振り返る。
「気を付けないと、アイツらみたいに恥かくぞ」
彼がそう言った途端、はらりと男たちのズボンが落ちた。どうやらすれ違いざま、腰紐を切り落としたらしい。
男たちの情けない悲鳴が上がる中、青年はからからと笑いながらアリーセの手を引いた。




