35話
ある年、村人が流行病にかかった。ひどい咳が続き、中には喀血する者もいた。しまいには高い熱が出て、なかなか下がらないと言う。
しかし、元々魔術が盛んだった村だったので、村人はそれほど重くは受け止めなかった。古い魔術師の家もある。治癒術をかけ、薬を飲めば治るだろう、と。
だが、不思議なことに、何度治癒術をかけても翌日には熱がぶり返した。薬を処方しても、まったく効かない。これはおかしいと気付いた時にはもう遅い。村で一番の魔術師が血を吐いて倒れた。
ようやく村は、事態の深刻さに気が付いた。
当時、魔女は見習い魔術師だった。倒れた魔術師の十何番目かの弟子だったが、彼女には才が無かった。魔術の才ではない。魔術師の才がなかった。
目の前で真っ赤な血に塗れた師を見て、彼女は唐突に恐怖を覚えた。このまま自分も病にかかり、無力故にただ死んでいくのか、と。
——お願い、村を救いたいの。どうせ死ぬのなら、あたしはみんなを救って、英雄になる。
こうして、彼女は禁じられた悪魔降ろしを行い、契約を結んだ。心臓を対価に、無力な少女は悪魔の力を得た。
だが、それが不幸の始まりだった。
悪魔の力で奇跡を起こした彼女に向けられたのは、感謝でも賞賛でもない。忌諱、非難、恐怖、落胆、そして嫌悪の眼差しだった。
なんて愚かなことを。どこで間違えてしまったんだ。ああ、この異端者め。
そんな言葉が投げかけられ、彼女は深く傷付いた。村のために命をかけて魔女になったのに、この仕打ちはなんだ、と。
来る日も来る日も少女は訴えた。自らの献身を、温情を、勇敢さを……しかし、いずれも村人の心を動かすことはなかった。代わりに飛んできたのは、罵倒や差別、そして冷たい石礫だけ。
少女は絶望し、村を離れることにした。理解のない村人への怨恨を、呪いとして残したまま。
魔女がいなくなり、村人たちは安堵した。これでまた平和な日々が戻ってくると。
しかし、魔女が残した呪いは、ある日突然芽を出した。再び病が流行り始めたのだ。
村人は魔女の呪いだと噂し始める。しかし、魔女はもういない。それならば、誰かが魔女の意思を継いでいるに違いないと誰かが言った。
彼らは、すでに去ったはずの魔女の仲間を炙り出すため、次々と怪しい者を火炙りにした。多くの魔術師が殺され、また多くの魔術師が村を去った。少女の師も、きっとそのどちらかだろう。
滅びを待つだけの村——ブルーストは、こうして出来上がったのだ。
魔女は静かに立ち上がると、薬品棚から小さな小瓶を取り出した。ことり、と無機質な音を立て、彼女は小瓶をテーブルに置く。
「これが薬。飲めば大抵の病は治る。いわゆる万能薬さ」
小瓶の中で揺れる液体は、見たことのない色をしていた。揺れるたびに色を変え、意思を持っているような光沢があった。
アリーセは村長から預かった代金を胸元から取り出し、テーブルに置く。興味がないようで、魔女は金の入った袋を一瞥すると「条件がある」と言った。
「条件……?」
「魔術を見せて」
アリーセはポカンとした顔で目を瞬いた。
先程まで、彼女はあり得ない程高度な魔術——いや、もはや魔法とも言える力を使っていた。杖も呪文もなく、まるで見えない手足を持っているかのように。そんな彼女に、いったい何を見せればいいと言うのか……いや、それ以前に……
「杖を、森で落としてしまったの。……魔術は、使えない」
ヘルツが彼女を閉じ込めた時、アリーセは杖を手放してしまった。今頃きっと、酸の雨で溶けてしまっているだろう。
あれはエヌマエルからの贈り物だった。元々は彼の所有物だったが、母が使っていた杖だと知ったアリーセの気持ちを察したらしい。ある年の生誕祭に、プレゼントとして譲ってくれた。一生あの杖を使っていくのだと、アリーセは漠然と思っていた。
俯くアリーセに、魔女は小さくため息を吐く。
「泣くほど大事なら、手を切り落とされても離すべきじゃない」
突然、大きな音がして玄関扉が開いた。振り返ると、そこには見慣れた長杖がふよふよと浮かんでいた。杖の柄には、大きな肩掛けカバンも引っかかっている。
思わず言葉を失った。見間違いようがない。アリーセの杖だ。
信じられないものを見るような顔で立ち上がり、恐る恐る手を伸ばす。チリチリと涼しげな音を立てながら、杖もまた泳ぐように近付いてきた。アリーセが触れると同時にふっと重力を取り戻し、手の中に収まる杖。
素手で触るのは久方振りだ。最近はずっと、手袋をつけていたから。
ざらりとした木の感触に、じわじわとアリーセの目に涙が滲み出す。
「ど、して……?」
震える声に、魔女は答える。
「……森に落ちてたものを拾おうが捨てようが、あたしの勝手でしょ」
突き放すような声色だったが、本心までもがそうでないことは、アリーセにもわかった。杖を強く抱きしめ、静かに肩を震わす未熟な魔術師を、魔女はただじっと見つめている。
暫くして、ボロボロの袖で顔を拭うと、アリーセは魔女に向き直る。そして、これまで決して向けることのなかった敬意を込めて、深く深く頭を下げた。
「……何?」
怪訝そうな声が降ってくる。頭を下げたままアリーセは震える口で言った。
「ありがとう、ございます……拾ってくれて、本当に……」
「別に。お礼を言われることじゃないよ。……それより、ほら。それで魔術を見せられるでしょ」
魔女は顔を逸らしたまま、アリーセの横を通り過ぎる。そのまま外へ出ていく彼女の背は、どこか照れくさそうに見えた。




