34話
小さな足音が聞こえた。背後で止まったそれは、地べたに座り込んだままの少女に訊ねる。
「魔術師が何の用?」
泣き腫らしたアリーセの顔が、ゆっくりと上を向いた。
いつの間にか夜になっていたようだ。久方振りに見た雨のない空は、それでもどんよりと曇っている。
そんな空を遮るよう、一人の少女がアリーセの顔を覗き込んだ。アリーセに負けず劣らず陰鬱な顔の少女だった。手には空っぽのジョウロをぶら下げている。
アリーセは、絞り出すような声で言った。
「……たすけて」
「それは、君を? それとも、そのゴーレムを?」
少女の視線が向く先を見て、アリーセはくしゃりと顔を歪める。
助けて欲しかった。アリーセもボロボロだが、一番はヘルツだ。アリーセは彼に謝らなければならない。感謝しなければならないことも、たくさんあった。
しかし、喉元まで出かかった言葉をアリーセは飲み込んだ。そして、再び泣きそうになる気持ちをグッと押し殺し、彼女は魔女に縋った。
「村の人を、助けてください」
無感情な魔女の眉が、ほんの僅かに動いた。
ほう、と小さな呟きが落ち、魔女は羽織っていた薄手のカーディガンをアリーセに被せる。それから、ゆっくりとした足取りで来た道を戻り始めた。
アリーセは、彼女を引き止めようと慌てて体を反転させる。そこで初めて、少し離れた場所に小さな家があることに気が付いた。
赤い屋根の小さな家だ。その家を中心に、ドーム状に雨が消えている。
相変わらず土地は痩せていたが、僅かながらも草木が見えた。濡れた鉢植えもあるが、弱々しい芽が伸びているだけで花は咲いていない。
ここが目的地——魔女の家だった。
家の扉を開け、魔女はアリーセを振り返る。淡々とした表情は変わらず、まるで機械のような動きだった。
「雨で冷えたでしょ。夜も遅いし、泊まって行きなよ」
「っそんな時間は……!」
「嫌ならいい。手ぶらで帰れば?」
ぞんざいな態度の魔女に、アリーセは言葉を詰まらせる。奥歯が小さな音を立てた。
どんな思いでここまで来たか、どれ程の痛みを味わったか、目の前の魔女はわかっていない。アリーセの胸に沸々と怒りの感情が沸く。先程まで泣き腫らしていた目が、ギラギラとした力強さを帯び始めた。
そんな風に感情を沸き立たせる少女を見て、魔女は困ったように嘆息する。裸足のまま外に出ていた彼女は、足の裏を玄関マットに擦り付けると、そのまま一人で中に入っていった。
「気が変わったら、どうぞ」
どうでも良いと言いたげな声に、アリーセは感情のぶつけ先を失う。やりきれない思いを抱えながら、少女はゆっくりと立ち上がった。
開けっ放しの扉を潜ると、真っ先に聞こえてきたのはお湯がカップに注がれる音だった。ふわりとホットコーヒーの温かな香りが部屋の中に充満する。宙に浮いていたヤカンが一人でに竈に戻り、戸棚の奥から菓子盆が勝手に飛んできた。
慎ましくも長閑な室内で、温かな飲み物と甘いお菓子が用意されたテーブル。花でも飾られていたら、歓待の準備は完璧だっただろう。
魔女が「砂糖とミルクは?」と問う。玄関に立ち尽くしたまま、アリーセは視界に魔女を入れないまま小さく答えた。
「……ください」
ん、と魔女が返事をすると同時に、どこからともなく砂糖壺とミルクポットが現れる。
沈黙の中、二人は静かに甘いカフェオレを飲む。振り子時計の音だけがやけに響いて聞こえた。
永遠とも思えるもどかしい時間の中、ふいに魔女が唇を開いた。
「君、あの村の子じゃないね」
こくりと頷くアリーセ。視線は交わらない。
「なのに、あの雨の中、一人で助けを求めに来たの? 何、人質でも取られた?」
今度は小さく首を横に振る。そして、消え入りそうな声で言った。
「一人じゃ、ないです」
魔女はほんの少しだけ視線を泳がせ、小さく「ああ、そう」と肩を竦める。
人質うんぬんに関しては冗談だったのだろう。魔女はそれ以上アリーセの来訪には触れず、すぐに本題へと話を変えた。
「村の人を助けてほしいって言ったっけ……随分と都合がいいんだね」
魔女は異端なんだろ、と今度はどこか自棄っぱちな調子で吐き捨てる。アリーセの視線が僅かに持ち上がった。
そうだ。魔女は異端だ。それは間違いがない。
前述の通り、魔女は悪魔の力を借りる。では、悪魔と精霊との違いは何か。
答えは明確だ。精霊は見返りを求めない。
魔術師が使う魔術は、全て精霊の厚意から成り立っている。だからこそ、魔術師は精霊への感謝を忘れてはいけない。精霊に見放されてしまえば、その途端、人は魔術の全てを取り上げられてしまうだろう。
一方、悪魔は契約者の心臓を要求する。願いの成就と引き換えに、悪魔は見返りを求めるのだ。記録されている魔女がこぞって短命なのは、その為である。代わりに、彼女らは終わりなき魔術の研鑽も必要ない。魔力の優劣も関係ない。平等で、残酷なほど強大な力と——その先の不幸が確約されている。
アリーセはもじもじと指先を絡ませた。聞いていいものか迷いながら、どうにか振り絞るように言葉を紡ぐ。
「貴女は、どうして魔女になったの?」
赤黒い魔女の目がアリーセに向けられる。射抜くような視線を感じながら、アリーセは誤魔化すようにカフェオレに手をつけた。
「…………八十年前、何があったか知ってる?」
「……人が、たくさん死んだって」
村長の話を思い出す。かつて魔女が村人を殺し、村人が魔術師を殺した。あの話が本当なら、村の土には大量の血が染み込んでいる筈だ。
魔女はカップに口をつけ、一呼吸開けてから頷いた。
「そう。人がたくさん死んだ。…………始まりは、ただの流行病だったんだ」
ポツリと落とされた言葉に、アリーセはようやく魔女を視界に入れる。深緑が、眼前の暗い瞳を捉えた。
血液のような色をした魔女の目はどこまでも暗く、陰鬱な影を落としていた。




