33話
固く握った拳が小さく震えた。寒いからなのか、腹が立つからなのかは、アリーセにもわからない。
ただ、酷く吐き気がした。
旅先で出会う人々が語る、シャルロッテとの思い出。初めは嬉しかった。自分の知らない母の姿を知ることができて、本当に幸せだった。
しかし、どうしてだろうか。聞けば聞くほど、自分の想像していた母の姿が崩れていく。
優秀で、才能に溢れ、誰からも頼りにされる——最高の王宮魔術師。そんな母だから、自分に会いに来なくても、ただ仕事が忙しいのだと思うことができた。
娘より大事な使命がある————だから、しょうがない。
娘より優先しなければならない仕事がある————だから我慢しなくちゃ。
アリーセは繰り返し自分に言い聞かせてきた。なのに、どうしてだろうか。
(私には、お母さんとの思い出なんて……ひとつもないのに……)
当たり前のように彼らの語る思い出が、羨ましくて、妬ましくて、我慢ができなかった。
(愛してたならどうして、大切に思っていたならどうしてっ……!)
アリーセの中で、答えの出ない問いがぐるぐると駆け回る。ギュッと固く目を瞑った時、暗闇の中で、アリーセを呼ぶ声がした。
ヘルツの声だ。
『すミませン、アリーセ。私にハ、貴女ノ気持ちガよくわカらなイ。ですガ、一つだケ』
いつもより不自然なガタ付きを感じ、ハッとする。縮こまっていた体を伸ばし、僅かな隙間から外を覗こうとした。
しかし、相変わらずよく見えない。アリーセは声高に叫んだ。
「ヘルツ、貴方まさか酸にやられ始めてるんじゃっ……!」
『大丈夫でス。こノマま聞いテくださイ』
案ずるアリーセの言葉を流し、ヘルツは再び話し始めようとする。アリーセは再び、中からこじ開けようと金属の扉を叩いた。
「ヘルツ! ここを開けて! 今すぐに!」
『アリーセ。聞イてクダさイ。シャルロッテは一度、あなタを産んダ後、モーゼスに会イニ来ましタ』
ガンッガンッと金属を叩く音が雨音に混じる。それでも、ヘルツの声だけは暗闇の中でよく響いた。きっと声を発する器官が内部のどこかにあるのだろう。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
「開けて! 開けてってば!」
『確かニ、シャルロッテの言っタ家族は初メ、アリーセでハなかったカもしレマせん。しカシ』
「ヘルツ! もう話は良いから! 私が悪かったから! 開けてってば!」
叩く。叩く。それでもヘルツの歩みは止まらない。
ぐらぐらと。ゆらゆらと。一歩一歩が不自然なほど大きく揺れる。
『最後ニ、シャルロ、テがおとズ、れた時』
アリーセは手が痛くなってもまだ、扉を叩き続けた。赤く腫れ、血が滲み……それでも扉はまだ開かない。
『アリーセ。あなタハ、確かニ、シャルロッテのムスめでしタ』
ガシャンっと大きな音がして、ようやく蝶番が壊れた。同時にぐらりと大きくヘルツが傾き、アリーセは開いた扉から冷たい地面に投げ出される。汚い音を立てて泥の中に崩れるヘルツと違い、アリーセが投げ出されたのは乾いた草の上だった。
体を起こしたアリーセが見たのは、酸の雨が降り続ける中、半分以上体の溶けたヘルツだ。残った片方のレンズが、チカチカと点滅している。
「ああ……ああ……っ!」
アリーセが慌てて手を伸ばし、唯一雨の降る領域から抜け出したヘルツの右手を握る。硬くて冷たいその手は、これまで何度もアリーセを抱き止めてくれた手だ。
何度も呼び掛けながら、どうにか晴れ間に連れてこようと手を引くアリーセ。しかし、少女が一人で動かせる重量ではない。
ヘルツは最後の力を振り絞り、チカチカと赤い瞳を明滅させる。
『アリ、セ……最後ニ、ォ願いを……』
「いやっ……嫌だっ! ヘルツ! お願い、動いて!」
『シャルろ、テへの伝言……まタ、酒でモ、ト……』
モーゼスに預かった伝言。彼はそれを言付けようと点滅する。しかし、アリーセはそれを聞き入れない。
「そんなのっ……自分で伝えてよっ!」
『……あァ……ソ、でスネ……伝エタい言葉ガ、たくサんあル……』
手紙、とヘルツが言った。
ハッとして、思わず手の力が抜けた。ボロボロになった手袋がずるりと滑り、ヘルツの手ごと抜け落ちる。
アリーセが尻餅をつくと同時に、ヘルツは『アぁ』と感嘆する。
『手ガミ……、書きタ……』
金属が、壊れる音がした。




