32話
それは、アリーセが七つの頃だった。珍しく高熱を出し、寝込んでいた。
アリーセの部屋は二階の奥で、一階ではいつものようにエヌマエルが工房を営んでいた。床を一枚挟んだだけで、階下の音は殆んど聞こえない。コンコンと鳴り止まない自分の咳を聴きながら、幼いアリーセはこう思った。
(ああ……私、このまま死んじゃうんだ……)
もちろんそれほど重篤な病ではない。ただの風邪だ。しかし、弱った体と思考では、正常な判断ができなかった。自分の吐く息があまりに熱いので、そのうち火を吹くんじゃないかと思うと怖くて涙が出た。
あの時の孤独感を、アリーセは未だに覚えている。
同時に、その後現れたエヌマエルの——冷えた手のひらの温かさも。
あの安心感を、アリーセは届けたかった。もう大丈夫だ、と肩の力が抜ける感覚を。
そんな使命感の元、痛くて重たい足を更に一歩、踏み出した。
ばちゃっと泥水が跳ね、ジュッと嫌な音を立ててショートブーツの紐が溶けた。防水薬はとっくの疾うに役目を果たし、酸の雨に溶けてしまっている。
靴底が半分ほどになった。手袋も指先が覗き、マントも徐々に穴が空き始めている。帽子のつばは歪な形に抉れてしまった。
それでも、アリーセの歩みは止まらない。一歩、また一歩と土砂降りの中を進んでいく。
『緊急停止! 緊急停止! アリーセ、危険でス! 今すぐに引き返しましょウ!』
ヘルツの声が、雨に混じって聞こえてくる。
しかし、アリーセは首を横に振った。大丈夫、大丈夫と繰り返し、足を引き摺るように進んでいく。
草木は殆んどが死んでいる。森と呼ぶのも烏滸がましい荒野だった。土砂降りのせいで視界が悪く、先が見えない。魔女の家にはまだ着かないのだろうか。
アリーセはひたすらまっすぐに歩き続けた。道を違えぬよう、まっすぐ、まっすぐ——……
違和感を覚えたのは、さっきまですぐ後ろを歩いていた金属音が、突然ぴたりと止んだからだった。振り返った途端、アリーセは自分の荷物が舞うのが見える。
ヘルツが腹を開け、中の荷物を投げ出していた。
「ちょっ……! 何をしてるの!?」
慌てて駆け寄るアリーセ。止めさせようと手を伸ばした瞬間、ヘルツはぐいっとその手を掴み、腹の中にアリーセを投げ入れた。
杖も落とし、その身一つで安全な鉄の箱に閉じ込められたアリーセ。ガチャンと外から錠を落とす音がした。
真っ暗な中、アリーセは声を上げる。
「な、何をするの、ヘルツ!」
『暴れないでくださイ。そこなら少しは安全でス』
「ふ、ふざけないで! 今すぐ外に出して!」
冷たい金属の壁を拳で叩くアリーセ。薄らと入り込む外の光が、腹の継ぎ目を示している。開けろと騒ぐアリーセに、ヘルツは困ったように言った。
『やめ、止めて下さイ。蝶番が壊れてしまいまス』
「うっ……!」
壊れる、という単語にピタリと手が止まる。モーゼスの顔を思い出し、アリーセは泣きたくなった。
どうしたらいいかわからず、僅かに空いた隙間から外を覗き込もうと試みる。が、ぐらぐら揺れる腹の中では落ち着いて外を観察することもできず、結局配線だらけの腹の中で、アリーセは腰を落ち着けた。
「何よ……そんなに私の言うことが信じられないの?」
不貞腐れたようなアリーセの言葉に『はイ。アリーセは時々とんでもない無茶をしまス』とヘルツは肯定する。
そんなことない、と言い切れず、アリーセはむっつりと黙り込んだ。
『大丈夫でス。私はゴーレムですから、貴女よりずっと頑丈でス』
その言葉に偽りはない。確かに彼はアリーセの何倍も頑丈で、何倍も耐久性がある。ボロボロになった帽子とマントでは防げない酸の雨も、ヘルツの外装なら暫くは弾いてくれるだろう。
返す言葉もなく、叩く手も禁じられたアリーセ。できることが何も無くなった少女は、再び己の無力さに苛まれる。
そんな少女の心を敏感に察したヘルツは『ご存じですカ?』と静かに問いかけた。
『私は貴女の側にいるために作られました』
「……急に何?」
『ただの雑談でス。座っているだけでは暇でしょウ?』
アリーセは渋々「そうね」と頷いた。続けて、彼女はブルースト村に来る前のことを思い出す。ほんの数日前の話なのに、大昔のように感じられた。
それがなんだと言うのだろう。
「モーゼス様がそう作ってくださったんでしょ? 私にお母さんのことを教えるために」
ヘルツの中で、アリーセは器用に膝を抱える。仄かに熱を放つ内部機関に背中を預け、わずかな暖を取った。
どこか拗ねたような声のアリーセにヘルツは答える。
『いいエ、違いまス』
「え?」
『私を作ったのは、シャルロッテでス。彼女が、私をそう作ったのでス』
言い切るようなヘルツの言葉に、雨の音が一気に遠のいた気がした。スッと体の芯が冷え、引いたはずの汗が再び吹き出した。
「おかあ、さんが……?」
戸惑いながらも、そんな筈がないとアリーセの脳が否定する。何故なら、シャルロッテがヘルツを作ったのはアリーセが生まれる前——彼女が宮廷魔術師になる前の話だからだ。
辻褄が合わない。だから、アリーセは自分が魔具核を取り返した際、モーゼスがヘルツを作り替えたのだと思った。自分の側にいるように、と。
「あ、あり得ないよ……そんなの」
震える声で否定するアリーセ。心臓が耳元で鳴っているように感じ、アリーセはギュッと穴の空いた手袋で胸元を押さえた。
「だって、私が生まれる前の話だよ? 生まれてもいない子供の側にいろって、おかしいじゃん」
『えエ……そうでス。シャルロッテはどこカ変わった女性でしタ』
懐かしむような調子で語るヘルツ。昔話でも聞かせるように、彼は淡々とシャルロッテの話を始めた。
『私が目覚めた時、初めて認識シたのがシャルロッテの顔でしタ。……アリーセ、貴女にヨく似てまス』
アリーセは静かに目を伏せた。
『彼女は子供ノような無邪気さで笑イ、私に言いマしタ。誕生日おめでとうト』
アリーセは両手で耳を塞ぐ。
『シャルロッテは私ヲ自分の子供のよう扱イ、繰り返シ言いましタ。私に何カあったラ、私の家族をヨろしくね、ト』
アリーセは奥歯を噛み締め、小さな子供のように丸まった。
それでも、
『シャルロッテはアリーセを愛シてタ』
——ヘルツの声は止められなかった。
ガンっと一際大きな音を立てて、アリーセは金属の壁を叩いた。お喋りを止め、アリーセを気遣うような言葉を投げかけるヘルツ。
だが、もう遅い。アリーセは小さく鼻を啜り、噛み付くように言った。
「なら、…………どうして会いに来てくれなかったの」
微かに震えるその声には、恨みが籠っていた。




