28話
跳ねた泥が水気を失い、破片となって剥がれ落ちる頃。アリーセの耳に、聞き慣れない歌声が届く。
どこか不気味な旋律を奏でるのは、幼い少女の声だった。森に住む魔性生物だろうか、と思いつつ、アリーセは声の方に足を向ける。
草をかき分けた先にいたのは、一人の少女だった。
ハンスよりもさらに一つ、二つ年下であろう赤いおさげの少女。呪いのような歌を口ずさみ、薬草を摘んでいる。
こちらに気付いた少女は、小さな悲鳴をあげると薬草をこぼしながら立ち上がった。幼い目には、驚きと恐怖が映っている。
彼女の視線が隣に向けられていると察したアリーセは、すぐさまヘルツをしゃがませた。
「だ、大丈夫だよ。私は魔術師見習いのアリーセ。この子はヘルツといって、私の友達なの」
よろしくね、と笑うアリーセの言葉に、少女はホッとしたように肩の力を抜いた。
「ブルースト村に行きたいんだけど、道はあってるかな?」
「え、ええ……村はこの先よ。あたし、そこから来たもの」
「本当?」
少女は再び「ええ」と頷く。それから「貴女こそ、本当にうちの村に来るの?」と、尋ね返してきた。
アリーセが肯定すると、少女はパッと花が咲いたように笑う。
「まあ、本当の本当に? 村にお客様が来るなんていつ振りかしら!」
歓迎するように笑顔を向け、アリーセの手を引く少女。三人分の足跡が陰鬱な森に刻まれていく。
ブルーストにはすぐに着いた。マリアと名乗った少女は、少し興奮気味にアリーセたちを案内する。
「みんな、魔術師様が来たと知ったら喜ぶわ!」
「み、見習いなんだけど……もしかして、この村には魔術師がいないの?」
「ええ。何十年も前に、みんな出て行ってしまったんですって」
困ったようにマリアが眉を落とした。アリーセは目を見開き、そんなバカなと驚く。
魔術師は教会の指示に従い、各地に派遣される。その地に暮らす人々が困らぬよう、彼らの生活を支えるのが魔術師の存在理由だからだ。
魔術師のいない町村は、必ず近隣の魔術師が巡回する義務がある。
全ての人に平等に——精霊の加護を隅々まで行き渡らせるのが、魔術師だ。
だというのに、この村にいた魔術師はその義務を放棄した。いや、それどころか、近隣の魔術師すらその責務を全うしていない。
アリーセは密かに憤りを覚えた。そんな状態では、村がどうなっているか分かったもんじゃない。鼻息を荒くしながら、アリーセは見捨てられた村へ足を踏み入れた。
その瞬間、ざわりとアリーセの身の毛がよだつ。本能的に、両手で杖を握り込んだ。
森に囲まれた静かな村。そこに住む人々の数は、決して多くない筈だった。しかし、村に入り込んだ余所者に向けられた視線の数に、アリーセは思わず腰が引けてしまう。
落ち窪んだ眼が、どんよりとした視線を向けてくる。老人が、男が、女が、一様に仄暗い空気を纏って、アリーセを遠巻きに見ていた。
その様子に何とも思わないのだろう。マリアは当たり前のように「ただいま」と朗らかな挨拶を口にする。老人の一人に駆け寄り、あのね、と子どもらしく語りかける。
「村の外で魔術師様に会ったのよ。ブルーストに用があるって言うから、案内してあげたの」
無言で少女の言葉を聞いていた老人。しかし、おもむろに「森に行ったのか?」と問うと、返事も待たずにマリアの頬を平手で叩いた。
きゃっと小さな悲鳴と共に、地面に倒れるマリア。薬草の入った籠が転がった。
「馬鹿者っ! 森に入ってはならぬと、何度も言っただろうが!」
「で、でもっ……森に入らなければ、薬草も採れないわ」
「口答えをするなっ! そういうのは大人の仕事だ! 女子供が勝手をするでない!」
ぼろぼろと泣きながら、マリアが散らばった薬草を拾う。震える指先は傷だらけで、爪の中にまで泥が入り込んでいた。厚手のワンピースは草露を吸い、裾の色が濃くなっている。
それだけで、彼女がどれほど長い間森の中にいたかがわかった。
「だって……だって……」
しゃくりあげながらも、薬草を拾う手は止まらない。本来なら魔術師が担う仕事を、年端もいかない少女が肩代わりをしていた。
ギュッと拳を握る。杖の飾りがチリンと澄んだ音をたて、アリーセを奮い立たせた。
小さなマリアを庇うよう、アリーセは老人の前へ立ち塞がる。
「あの」
振り絞った声が微かに震えた。しかし、深緑の目だけは真っ直ぐに老人を見上げている。
「初めまして。私、ユピトルという街で魔術師見習いをしております、アリーセと申します。人を探しに来たのですが、その前に……」
一瞬だけ、アリーセは視線をマリアに向ける。そして、
「病人がいるのなら、案内してください」
気丈なフリをして、アリーセははっきりと言い放った。
老人の目がアリーセに向く。剣呑な眼差しや僅かに寄った眉根が、アリーセへの嫌悪感を滲ませていた。
低く、嗄れた声が「病人なぞおらん」と答えた。背後から「嘘よ!」とマリアの声がする。アリーセが振り返ると、マリアがポロポロと涙をこぼしていた。
「フリーダおばさんも、イザークおじさんも、みんな体の調子が悪いって言ってるわ!」
マリアの叫びに、老人は「余計なこと言うな!」と口止めする。しかし、嗚咽混じりの嘆きは止まらない。
「お母さんだって、数日前から寝込んでて……だから、あたし……」
マリアの手が、薬草を握り込んだ。アリーセは胸の奥がギュッと掴まれたような気がした。
(ああ……だからあんなに……)
自分の来訪を知った時、マリアは異様なほど喜んだ。それは、ただ珍しい客が来たことへの興奮だけでない。
ようやく訪れた、救いの手に対する喜びだったのだ。
それに気付いてしまったアリーセは、もう引き返せない。これまで出会った街の魔術師たちも、動機や性格はさまざまだった。しかし、魔術師としての職務を放棄した者は、一人もいない。あのカーリンですら、文句を言いながらも仕事はきっちりとこなしていたのだから。
アリーセは老人に背を向け、マリアの側に膝をつく。森の中でもそうしたように、彼女のこぼした薬草を拾い、差し出した。
「ねえ、マリア。みんなのところに案内をしてくれる?」
アリーセは見習いだ。医療魔術なんて高度な魔術は使えない。
しかし、アリーセは魔術師だ。それは見習いでも変わらない。
誰かが救いを求めるならば、手を差し出すのが魔術師だ。できないこともあるが、できることだってきっとある。
そんなアリーセの想いを、マリアは薬草ごと受け取った。




