26話
ヨハンナの語るエヌマエルの姿は、アリーセの知る人物と決して相容れないものだった。
「アイツはねぇ! ちょぉおおっと自然との結びつきが強いからって、人のことを見下しすぎなのよ!」
「え、でも……師匠は『自然との結びつきの強さは、魔術の才であっても、魔術師の才ではない』と仰ってましたが……」
「そんなの、愛師匠や愛弟子のための建前に決まってんでしょうがっ! 絶対、本心じゃないわよ!」
俄には信じがたい、と眉を顰めるアリーセに、もう何度目になるかわからない「だいたいアンタはねぇ!」が始まった。
酒で目がボヤけているのだろう。ヨハンナの目には、時折アリーセがシャルロッテに映るようだ。
そんなに似ているのだろうか、と二つに結えた髪の先を、くるくると指に巻きつけて遊ぶ。
少し前までなら、偉大な母に重ねられることを誇らしく感じただろう。同時に、小さじ一杯分の後ろめたさも。
だが、ヨハンナの叫びを聞いた後だからだろうか。アリーセは何も感じなかった。
自分の思う母の姿は、エヌマエルの見た母の姿だった。完璧で、最高の魔術師。しかし、モーゼスの知る母はもう少し幼く、人間らしい。少女のように純真な、才能溢れる魔術師。
そして、ヨハンナの語る母は——どうしようもなく、駄目な人間だった。時間にルーズで、だらしなく、子供のような破天荒さを備えた、ただの人だった。
(魔術師の在り方だけじゃない。お母さんの姿も、師匠の話とはちぐはぐだ)
アリーセは頭の中でぐるぐる考えた。もし、ヨハンナの見解を真っ先に聞いていたら、アリーセは強く反発しただろう。
しかし、ヴェンヌズでの事件が、モーゼスの語る母が、少しずつ……アリーセの中の母親像を崩していた。
そういえば、と思い立ち、アリーセはヨハンナの名を呼ぶ。くぐもった彼女の返事は、今にも眠ってしまいそうな声だった。
「お母さんは、新魔術派だったんですか?」
「はぁ〜? なぁに、急に?」
眉根を寄せるヨハンナに、アリーセはヴェンヌズでの出来事をかいつまんで話した。ふんふんと頷きながらグラスを傾けていた彼女は、突然ハンッと鼻を鳴らす。
「なんとか派だとか、かんとか派だとか……アンタのママが一番縁遠い言葉ね」
「え……」
予想だにしていなかった言葉に、思わず聞き返すアリーセ。しかし、ヨハンナは言葉を繰り返すこともなく「まあ、わかんないけど」と切り捨てるように言った。
「あの子が何を考えてたかなんて、知ったこっちゃないわよぉ」
「そ、うですか……」
「でも、その話は気になるわねぇ。……保守派が魔具核を、ね……」
ポツリと呟くヨハンナ。酒気でぼんやりとしていた目が、一瞬だけ王宮魔術師らしい真剣さを帯びる。
しかし、アリーセが再びヨハンナの名を呼んだ時には、彼女は元のへべれけに戻っていた。
「まあ、こっちでも調べてみるけどねぇ〜……でも、何年も前に辞めた魔術師のことなんて、大した記録も残ってないと思うわよ」
「え、あっ……はい。あの、ありがとうございます。……なんでもいいんです。今は、その……師匠に繋がるなら」
母のことが気になりつつも、アリーセの本来の目的はエヌマエルだ。
改めて頭を下げる少女に、ヨハンナは「そ」と短く返事をした。
気が付けばヨハンナはテーブルに突っ伏し、すうすうと寝息を立てていた。アリーセはゴミ溜めの中から使えそうな毛布を引っ張り出し、軽く払ってからかけてやる。
このまま彼女を介抱しても良かったが、外にヘルツを待たせている。大きく重量のある彼が入ったら家が崩れそうなので、外で待機して貰っていたのだ。
手をつけていないコーヒーはすっかり冷め、アリーセは少しだけ申し訳なさが湧いた。
軋む扉を押し開け、そのまま家を出ようとした時だった。
「ちょいとお待ち」
ここ数時間で聴き慣れた声が、アリーセの足を止めた。
くわ、と大あくびを落としたヨハンナが、床に落ちていた杖を拾う。杖先でコンコン、と床板を叩くと、どこからともなくネズミがわらわらと現れた。
「ひぃっ……!」
「大丈夫、大丈夫。噛み付きゃしないから」
大量のネズミが、狭い室内を縦横無尽に駆け回る。すると、どこからか一枚の封書を咥えたネズミが数匹、ヨハンナの手元まで登ってきた。
「ああ、あった。……はい、これ。持ってきな」
部屋に戻り、封書を受け取るアリーセ。説明を求めるように視線を向けると、彼女は再び大あくびを落とす。
それから眠たそうな翠の目で「アンタの旅に役立つもの」と言った。
「何年か前だけど、坊やが古代魔術の資料を集めてるって聞いたのさ。もしかしたら、坊やならシャルロッテの行方も知ってるかもね」
「……いずれにしても、まずは師匠を見つけなきゃなんですね」
「そういうこと。というわけで、古代魔術に関する施設のリストと、宮廷魔術師からの入所許可証。アタシからはもう再発行できないから、大事になさい」
はい、と大きく返事をし、アリーセは封書を鞄の奥底にしまった。顔を上げると、ヨハンナはすでに寝息を立てている。
アリーセは音を立てないよう気を付けながら、深々と頭を下げ、今度こそヨハンナの家を後にした。




