25話
「十年くらい前だったかな……あの子ったら、突然宮廷魔術師を辞めてね。そのまま、ふらりとどこかに行っちまったんだよ」
グラスの中で、真紅の液体がゆらゆらと揺れる。宝石を溶かしたようなワインを呷りながら、ヨハンナは懐古するようにそう言った。
「なぁんにも言わずにさ。本当、薄情な女だよ」
「そ、う……だったんです、か……」
膝の上で硬く握った両の拳。それをじっと見つめながら、アリーセは頷いた。
しかし、心中はちっとも穏やかじゃない。ぐちゃぐちゃで、言葉にならない感情が渦巻いていた。
なんで、どうして、と誰に向ければいいかわからない問いが浮かんでは、喉元につっかえるようだった。
ヨハンナは遠くを見つめるような目で言葉を続ける。
「……あれ以来、シャルロッテがどこで何をしているか、アタシも知らない。何で辞めたのかも、辞めなきゃいけなかったのかもね」
ただ、と言葉を区切った彼女は、視線をアリーセに合わせた。
「あの日、アンタを連れてたことだけは覚えてる」
射抜くような鋭い眼差し。ヒュッと喉の奥で空気の通る音が微かにしたきり、アリーセは声が出なくなってしまった。
浅い呼吸を繰り返すアリーセに、ヨハンナは問う。
「アンタ、三歳の時に坊やに預けられたって言ってたね。それから、一度もシャルロッテと会っていないのかい? 坊やが何か言ってたんじゃないか?」
「……し、知らない…………知らないんです。本当に、何も……」
アリーセは本当に何も知らされていなかった。気がつけばエヌマエルの元で暮らし、自然と魔術を学び始め、当たり前のように弟子となった。
母のことを聞いても、彼は「彼女は立派な宮廷魔術師でした」と言うばかり。勤勉で、優秀で、美しい——アリーセと同じ金色の髪を持つ、完璧な魔術師。
アリーセの知るシャルロッテは、それだけだった。
座っている椅子の底が抜けたような気がした。足元が覚束なくて、自分の輪郭がぐにゃりと歪んでしまったようだ。頭の奥でキーンと耳鳴りの音がし始め、鼻の奥がツンとする。
そのまま心がペシャンコに潰れてしまいそうになった——その時だ。
ばちゃっと水音がして、グラスの中身がテーブルに広がった。
ヨハンナが手をつけなかった水のグラスを、モンドが倒したらしい。
じとりと月のような金色の双眸が、ヨハンナを責めるように見上げた。部屋の端で、大鴉のテルンも苛立ったように趾を止まり木に叩きつけている。
決まり悪そうに眉を下げ、倒れたグラスを起こすヨハンナ。水差しから再度水を注ぎ、ぐいっと一息に飲み干した。
「すまないね。……あまりに配慮のない質問だった。本当に申し訳ない」
「い、いえ……そんな、ハンネ様が謝ることじゃ……」
ないです、と消え入りそうな声で呟くアリーセ。何とか笑みを浮かべようとするが、動揺が顔に出てしまっていた。
じろりと表情豊かな視線を送る使い魔に、ヨハンナはボサボサの頭を更に掻き乱す。
「ああ、悪かったよっ! 坊やが育てた子が、こんな繊細だとは思わなんだ!」
だんっと拳をテーブルに叩きつけるヨハンナ。肩を震わせ、再び落ちかけた視線を上げれば、ばっちりと翠の目が合う。
しかし、先ほどのような鋭さは感じられず、そこにあるのは純粋な反省の色だった。
アリーセの心が僅かに解ける。肩の力が抜け、今度は自然に「いえ、本当にお気になさらず」と口が紡いだ。
「母がここにいない、というのは驚きました。本当に、何も聞いていなかったので。……でも、会えないことに、少しホッとしている自分もいるんです」
独白のような言葉に、ヨハンナは何も言わない。ただ、厚ぼったい唇を引き結び、続きを促すように片眉を上げた。
アリーセは少しだけ視線を彷徨わせ、答えを探すように言葉を続ける。
「会いたい……けど、何を話していいか、わかんなくて……」
才能豊かな母に、未だ見習いでしかない自分を見せるのが恐ろしかった。基礎魔術しか使えない、無力な自分を。
同じ見習いでも、ロルフはすでに専門魔術を決め、アルノルドの元で修行を重ねている。自分は、ただ成り行きでエヌマエルの元にいるだけだった。使えもしない、自然魔術の祖の元に。
硬く目を瞑るアリーセに、ヨハンナは小さく鼻を鳴らした。パッとアリーセの潤んだ深緑が、彼女を見る。ヨハンナは何杯めかわからないワインを、流し込んでいた。
ぷはっと唇がグラスから離れると、彼女はその口で「そんな大層なもんじゃないわよぉ」と、人が変わったように話し出す。やけに色っぽい、ねっとりとした声だった。
「は、ハンネ様?」
「あのねぇ……坊やからどんな立派な話を聞いたか知りゃしないけどぉ。アンタの母ちゃんも、お師匠様とやらも、昔は本っ当ぉに碌でもなかったんだから!」
ドンっと再び拳がテーブルに叩きつけられる。
モンドがあーあ、と言いたげな顔でテーブルの上から降り、部屋のどこかに隠れてしまった。テルンは一つ二つ羽ばたくと、壁の空いた小さな高窓から散歩に出掛ける。
「えっ……ええっ?」
置いてかれたアリーセは、渋々ヨハンナに向き合う。
「も、もしかして、ハンネ様……酔ってます?」
「アタシゃ、いつでもへべれけよぅ!」
「こ、困る〜……」
眉をハの字にしたアリーセを見て、ヨハンナは眇めるように目を細める。
アリーセの顔をまじまじと見つめたヨハンナ。ふいに「だいたいねぇ、シャルロッテはあの坊やに甘すぎなのよぅ!」と愚痴り始めた。
え、とアリーセが声を上げるも、彼女は気付かずに不平不満を続けた。
礼儀がなってない、性格が悪い、人を馬鹿にしてる、とおよそ師のことを指しているとは思えない言葉が飛び出した。
そういえば、と思い出すのは王都で会った昔馴染みの魔術師。彼もまた、似たようなことを言っていた。
アリーセは少しだけ身を乗り出し、ハンネ様、と眼前の酔っ払いを呼ぶ。
「んー?」
「うちの師匠って、昔はどんな方だったんですか?」
わくわくと輝く深緑の眼に、ヨハンナは再び顔を歪める。それから、ニイっと口元を引き上げ……
「知りたい〜?」
意地の悪い顔を浮かべた。アリーセの答えは言うまでもない。




