21話
氷のように冷たい声。ヒヤリと首筋を触られたような冷たさに、思わずアリーセは顔を上げた。
女の前で、ハンスの手が固く握られる。
「……ゲルダに手紙を届けたいんだ。今、何をしてるのかって」
「知らずとも結構です。あの子が何をしているのか、貴方のような子には関係がありませんから。これ以上、不浄を広げる前に、さっさと汚れた巣にお帰りなさい」
ピシャリとハンスの言葉を跳ね除けた女は、ひらりとスカートの裾を翻す。横目でアリーセを一瞥すると、彼女は付け足すように「貴女も」と言った。
「こんな子に関わっていると、せっかく精霊様からいただいた才能を無駄にしますよ。付き合う人間は、きちんと考えなさい」
アリーセが言葉を返す前に、彼女は再び扉の中に入っていく。再び静まり返る住宅街で、ハンスの啜る鼻の音だけがやけにはっきりと聞こえた。
「……落ち着いた?」
ジュースの炭酸割りを差し出しながら、ベンチで俯くハンスの顔を覗き込む。
目と鼻を真っ赤にした少年は、ズズッと音を立てた鼻を袖で拭った。眉を顰めつつも、今は小言を口にするのも躊躇われ、アリーセは黙って隣に座る。ベンチに座れないヘルツがその隣にしゃがみ込んだ。
カップを受け取ったハンスが、ようやくポツリと言葉を落とす。
「……いつも、ああやって帰される。俺が、貧民街の子だから」
王都の外には、街に入ることの出来ない——しかし、他のどこの土地に行くこともできない人々が、勝手に集まって街を形成している。それが貧民街だ。
彼らは入門時間を過ぎた旅人などを相手に物乞いし、商売をして生計を立てている。それでも生活の苦しい彼らは、盗みを働くこともあった。
昨晩、アリーセが野宿に難色を示したのも、それが原因の一つだった。
だから、ゲルダの母が毛虫のようにハンスを嫌うのも、わからなくはない。しかし、それを認めてしまうことを、アリーセの中の何かが許さなかった。
パチパチと弾ける炭酸ジュースの水面を見つめるハンス。その小さな姿がなんだか愛おしく、アリーセは「ねえ、ハンス」とできるだけ優しい声を出した。
「ハンスは魔術師に弟子入りして、何をしたかったの?」
アリーセの問いに、ハンスはもごもごと口籠る。そろりと視線を上げようとして、再びすぐに俯く。
そんなことを繰り返した後、小さな声で「白鳩を飼いたかったんだ」と言った。
「魔術師になって、白鳩を飼って……そうしたら、ゲルダが出て来られない日でも、手紙でやり取りができるって思ったんだ」
定められた住所に宅配する配達所と異なり、白鳩は宛名の人物に手紙を届ける。あの母親の目を介さずに済むことを、ハンスは知っていたようだ。
彼はくしゃくしゃになった手紙を差し出し、自慢げに「文字だって書けるんだぜ」と言った。
石に巻かれ、紙はボロボロになっていたが、そこには辿々しい筆跡の文字がのたくっている。拙い言葉でゲルダの身を案じる手紙は、確かにハンスの優しさで溢れていた。
それを見て、アリーセは胸が熱くなった。思わず「よしっ!」と立ち上がる。
「ハンス、さっきの場所に戻ろう。その手紙、私が届けてあげる」
え、と戸惑うハンスの手を、今度はアリーセが掴んで駆け出した。
「っ無理だよ! 万が一手紙を受け取っても、絶対にゲルダには渡してくれないって!」
「だろうね」
白い敷石を踏み鳴らし、アリーセはずんずんと邸宅前まで歩いた。
容赦のない相槌に言葉を失くすハンス。ようやく絞り出したのは、だったら、と諦観を含んだ声だった。
「……行ったって、しょうがないじゃん」
再び泣き出しそうな声の少年に、アリーセは「大丈夫」と自信たっぷりに言う。
「今の私、最強な気分だから!」
困惑し、アリーセを見上げるハンス。その後ろで、ヘルツが不可解そうに目の光を点滅させていた。
ゲルダ邸の前まで戻ったアリーセ。身の丈を超える長い杖をハンスに預け、空いた両手でせっせと何かを作り始めた。
「何してんだ?」
手元を覗き込むハンスに、アリーセは満面の笑みで振り返る。
「できた! じゃんっ!」
アリーセが広げた両手の上にあったのは、ハンスの手紙で作った紙飛行機であった。
驚きで目を瞬くハンスに、アリーセは悪戯っぽく笑う。そして、二階のバルコニーを見上げた。
「あそこの窓が、ゲルダの部屋なんだよね?」
「う、うん……」
「じゃあ、この手紙をあそこまで飛ばせてあげよう!」
紙飛行機と杖を交換し、アリーセはヒソヒソと作戦を耳打ちする。
始めは訝しげだったハンスも、話を聞き終えると目を輝かせた。顔を見合わせ、大きく頷く二人。
「それじゃあ、作戦開始!」
目立つからと、ヘルツは先に宿へ帰した。しかし、連れてくればよかったと後悔したのは、思った以上にハンスの身長とバルコニーの間に高低差があったからだ。
思わず零れたアリーセの小さな呟きを拾ったらしい。ハンスは対面の縁石に足をかけ、少しでも高さが出るようにと塀に登り始める。
ギョッとするアリーセに、ハンスは得意げに笑いかけた。
(これは……早く終わらせないと、通報されるっ!)
アリーセは慌てて杖を構え、意識を集中する。閑散とした住宅街の中、そよぐ風が花壇の草花を揺らした。
「それじゃあ……飛ばすぞ!」
ハンスがそう言った瞬間、アリーセも呪文を口にする。
「《我らが隣人たる精霊よ。彼の想いを飛ばす我らに風の力を貸したまえ》」
それは、小さな風を起こす——たったそれだけの魔術だった。




