第九首 あやまたず 待つにまさりて 遅き日の 夕暮れにこそ よきはありけれ
――夜歩きより帰りたるに、だだ子の待ち居たる、いとすさまじ。まぐはひせむとて褥をあらはにしつらひたる前に、今日もなほ腹立ちて立ちたるは、いとをかしう、また恐ろし。
「どこの馬の骨とも分からぬ、しかも右京の怪しげな娘など、宮様のお傍には置けません!」
少女の前に立ちふさがるのは、やはり『あやかし桜』。宣旨のだだ子である。
事情を聞くなり、火が出る勢いで猛反対してきた彼女に対し、赤目の少女は落ち着いた様子のまま、両手を広げる。
「だだ子様に申し上げます。私の力は夜風に聞く占いのみ。このお屋敷の役には立たないかもしれません。ですが、私を追い出せば、部屋の奥にいる愛する犬とは二度と会えなくなることでしょう」
何も言わずとも、少女は夜叉丸の存在をピタリと当ててみせた。
これには、はんなりとしたかぐやも目を丸くする。
しかしもっと目を丸くさせていたのは、他ならぬだだ子であった。
「……見えないからと言って、加減はしません。まずは身なりを整えること」
少女の力は弦一郎ですら驚かせ、彼は口の端で笑いながらかぐやの顔を見下ろした。
「大したもんだ。自分で何とかしやがった」
目下にあった苦難もなくなり、まぐわいたくなったかぐやは、黙って彼のぶ厚い胸板に頭を預ける。
二人の目の前で、だだ子と少女はなおも言葉を重ねた。
「名前は?」
「ありません。通りでは赤目と呼ばれていました」
「それは困りましたね。宮様、どうかこの子に、ご慈悲を」
だだ子はスッと頭を下げ、主人であるかぐやに少女の命名を頼み込む。
「……え?」
モードに入っていたかぐやは、あらびっくり。
久しぶりに責任のある仕事を依頼され、心がずっしりと重たくなる。
「まぁ……追々に?」
「宮様?」
目を逸らすかぐやに、だだ子の厳しい視線が飛ぶ。
「明日……明後日中には?」
「くれぐれもお願いします。さあ、ついてらっしゃい」
「はい。それでは、失礼します」
あぁ、行ってしまった。
「さて、やるか」
「……うん」
今日のところは、彼が何もかも忘れさせてくれるから、まぁいいか。
かぐやは深いことを考えず、深いところを突かれるに至った。
――明日よりは 励まむものを 今宵だに 君が手枕 無事を確かむ。
◇ ◇ ◇
流れるように二日が経った。
かぐやは一流。
当然、締め切りは守らない。
「宮様ぁ!?」
鬼の呼び声が、屋敷に響き渡る。
聞こえる足音も心なしか、黄泉の国に引きずり込んできそうな、異形の凄みを感じさせてくる。
――やばい。
こういう時、必ず守ってくれる弦一郎は、平日だからいない。
困ったかぐやは、どうする、どうする。
そんなに怖いのなら逃げればいいのに、彼女は自室であたふたとするばかり。
やってる風を醸し出すために、とりあえず机に向かってみたりする。
「宮様ぁ!?」
脚が四本あるのか。
せかせか、とことこ。
とても人間とは思えない律動を床に刻み、来るぞ、来るぞ、あやかし桜。
意を決し、無心になったかぐやは握った筆を走らせる。
目の前の半紙に描いたるは『夜』の一文字。
――違う!
確かに趣はあるが、今は昼。
納得いかなかったかぐやは、半紙をくちゃくちゃに丸めて放り投げた。
「宮さっ……」
宙で弧を描いた紙屑が、ちょうど訪ねてきただだ子の頬に当たる。
紙屑は床に落ちる前に、彼女の傍らにいた童女の頭でぽてり、と跳ねた。
「あたっ」
「……え?」
モードに入ることもしていなかったかぐやは、見てびっくり。
だだ子が連れている子は、間違いなく赤目の少女。
しかし、身なりを整えたその姿は、見ているだけで守りたくなるほど愛らしいものに変わっていた。
梳かされた髪は夏の日差しを反射して、雅なことに、輪が浮かんでいるようにも見える。
「だだ子……」
彼女の徹底した仕事ぶりにも、心を打たれた。
十一時に起きてる場合じゃない。
この二日を振り返ったかぐやは、自分が恥ずかしくなった。
「約束の日はとうに過ぎましたが、この子の名前は、考えていただけましたか?」
「……ごめんなさい」
もはや観念して、謝ることしかできない。
だだ子の鼻の穴がぷくりと膨らむ。
――来る。
目を閉じかけたかぐやだったが、冥土の使いはすぅと吸い込んだ息を口から吐き出しただけだった。
「……そんなことだろうと思っていましたよ。この子を連れてきてよかった。さあ、宮様のお傍へ」
目が見えないはずの少女は迷いなく、とことこと歩み出ると、かぐやの隣に腰掛けた。
「『夜』は好きです。姫宮様はお好きではないのですか?」
「どうして……」
ぞっとするほど美しい少女を前に、かぐやは声を潜めながら尋ねる。
少女は無邪気に微笑むと、ピンと立てた指を自らの耳に当てた。
「風だけではありません。音に聞けば、おのずから」
衝撃を受けたかぐやは、どうする、どうする。
「……じゃあなんで、紙屑を避けられなかったの?」
そこに気がつくとは、やはり一流。
対する赤目の少女の答えや、いかに。
「当たることを、私が選んだからです」
さっぱり、意味がわからない。
ただ、かぐやの目に映る少女から、超一流のオーラが放たれていることだけは間違いなかった。
「なんだか、すごいのね」
「よく言われます」
弦一郎と同じ匂いが、ほのかに漂ってくる。
胸をときめかせたかぐやは、一見して無垢に見える少女の頬へと手を伸ばした。
少女は嫌がるどころか、歯を見せながら、触れてきたかぐやの手に自分の手を重ねた。
部屋にこもった熱気が、そよそよと吹き込む風に押し出される。
「……あなた、『風』は好き?」
「はい」
新しい半紙を机の上に広げたかぐやは、躊躇なく、サラサラと文字を書き上げた。
「あなたが好きなものが、あなたの名前。今日から、あなたは『夜風』です。これからよろしくね、夜風」
「はい」
こうして、少女に名が授けられた。
してやったりとほくそ笑むのは、廊下に立ったままのだだ子であった。
そんな彼女をちらりと見て、かぐやは心の中で一首詠む。
――いかに見よ 我もなすべき 時は来ば 思ひ定めし 事をぞとする。




