第三首 恨めしき 闇もひとむら 湯に溶けて 静けく咲ける あやかしの花
弦一郎とおうちデートの約束を交わして、二日が経った。
かぐやはその晩、彼との再会を心待ちにするあまり、心を込めて歌を詠んだ。
――長き夜の 千夜を重ねて 経る心地 なほも静かに 君を待つかな。
さらに、二日後の夜。
うきうき気分は、どこへやら。
すっかり陰りが差した表情で、彼女は歌を詠む。
――君待つと わが身の魂も あくがれて 消えぬべきかな 今来ずは、はよ来。
さらに、二日後。
女房たちや宣旨の進言も聞かず、見る影もない酷い有様になった女が、母屋の褥に座っている。
すでに鏡に向かうことすらやめたかぐやは、ただ一心に、呪詛のような歌を練り上げた。
――君待つと わが黒髪も 乱れ果て 怨み死にせむ 鬼となるまでに。
が、そのとき。
待ちわびていた、その瞬間が訪れた。
ザザーーーッッ!! バチバチバチィッ!!
静かな夜の寝殿に、玉砂利を弾く音が響く。
それは、妖魔どもも裸足で逃げ出す、猛烈なる武者様のご到着の調べ。
大股で砂をかき分け、いざ、かぐやの待つ部屋へドロップキック。
その熱情の前には、儚い唐紙など、造作もなく千切れるのみ。
バッシャァァンッ!!
「おっしゃ、オラァ!! 来たぞ!? やるぞ、かぐや!! 今日は土産もあるからなぁ!? 朝までとことん……きったね!? くっせ!? 誰だ、お前!? かぐやか!? かぐやだな!! どうした、その髪!? まるで鬼の角……いや、猫の耳だな!! はっはっは!! 引きこもりすぎて、ついに風呂も入らなくなったか!? よーしよし、それなら俺が入れてやる!! 邪気払いだ!! 女房ども、湯を張れぃ!!」
強制連行。
四、五貫はある十二単ごと、その身体をひょいと持ち上げられたかぐやは、彼の逞しい腕の中でまた一首、解呪の歌を詠み上げる。
――鬼と見し わが身の闇も かき消えて 君が笑顔ぞ いと恨めしき。
◇ ◇ ◇
浴槽、ほのかに香る、藤袴。
湯殿に二人、男と女。
「……恥ずかしいです」
「なぁに言ってやがるんだ、裸くらいで。逢瀬のたびに、とんでもねぇ声で鳴くくせに。貴族どもが噂してるぞ? 『あの屋敷には鵺が出る』つって」
それについては、朝ぼらけまで休ませてくれない、そちらのせいでは?
そう思ったかぐやは頬を朱に染め、また恥じ入る。
「……恥ずかしいです」
「です、とかいらねぇんだよ。いい加減、戻れ。ちょっと離れたぐらいで、雅な女になるな」
ちょっと?
千年の間違いではないか。
この数日を振り返ったかぐやの心に、粘り気のある怒りの炎が少しだけ戻る。
「……ゲンちゃん、もう堪忍して? 体は自分で洗えるから」
「自分で洗える女が、何でこんな姿になったんだ、ああん!?」
「あ……」
有無もいわさず、弦一郎の手が伸びる。
――ぬえ鳥の ひゃうひゃうと鳴く 夜半の月 いかに狂ほす 君が手だくみ。
小豆粥のようにくたくたにされたかぐやは、もうぐったり。
目も虚ろになって、あとは流れに身を任せるのみとなってしまった。
一方で、鵺退治を終えたばかりの弦一郎はなおも猛々しく、紅に染まったかぐやを両腕に抱きながらも、なぜかその顔を困らせていた。
「やっべぇ。髪の洗い方だけが、どうしてもわからん。しょうがねぇ。アレを呼ぶしかねぇか……おーい、だだ子!?」
立ち込める湯けむりを吸い込むように、しっとりと打ち出でたのはこの屋敷の宣旨だった。
面妖な老成ぶりに、咲き初めたばかりの桜のような瑞々しさが混じり合う顔立ち。
見ているだけで心惹きつける、その不気味なまでの美しさは『かぐや御殿の妖桜』と呼ばれるにふさわしい容貌をしていた。
「耳が腐りそうな大声を出さずとも聞こえておりますよ、弦一郎様。かぐや様の御髪を、獅子のようなその手で引きちぎる前に、さっさと私にお任せなさいませ」
きつい言葉を浴びせるなり、だだ子は弦一郎から奪い取るようにして、主の体をその手で支えた。そのまま、彼女は流れるように懐から櫛を取り出し、かぐやの髪を優しく解きほぐし始めた。
「はっはっは! 相変わらず、絵に描いた宮仕え人ぶりだな。元気だったか?」
「また暢気なことをおっしゃって。かぐや様がこのようになってしまわれたのは、どこのどなたのせいだと思っておいでですか?」
弦一郎の軽口にも、だだ子は冷静な表情を保ったまま、手を動かしながらぴしゃりと跳ね返した。
「おい、言い過ぎだぞ? そんなに怒るなって……」
過去一番の強敵に、常勝無敗で口も立つ荒武者が言葉に詰まされる。
「怒ってなどいませんよ、『討魔太夫』殿。呆れて言葉も出ないだけでございます」
言いまくってるじゃねぇか。
だから呼びたくなかったんだ、この女は。
劣勢に立たされた弦一郎だったが、そこはさすがの『討魔太夫』。
たちまちに起死回生の一手を思いつく。
「そういえば、醴酒を持ってきたんだった。山ほどあるから、女房たちにも後で分け与えてやってくれ」
今週の務めは『八竈』と呼ばれる魍魎の討伐だった。
その報酬を牛車に積んだまま、彼はこの屋敷へとやって来ていた。
「…………」
酒は最上級の手土産。だだ子は眉の代わりに、その細い喉をこくりと動かした。
「物で釣ろうとは、なんと浅ましい。ですがまあ、女房たちへの労いとしては、及第点といたしましょう。後で、ありがたく頂戴いたしますよ」
『妖桜』、討ち取ったり。
弦一郎はしたり顔で笑うと、彼女の腕の中で朦朧としているかぐやと目を合わせ、庭の方を指差した。
かぐやがそれに頷くと、彼は静かに湯殿を去っていった。
「宮様も宮様でございますよ? まだ宵の口だと言うのに、なんですか、あのもののけのような嘶きは。まったく……大切な姫宮様に、あのような荒くれた男をあてがうとは、帝も何を考えておられるやら」
標的を逃した妖桜の毒蔓が、儚い紅月どころか、その月を輝かせる太陽の喉元にまで絡みついた。
かぐやは眉根を寄せ、心苦しい気持ちを吐き出すように呟く。
「……だだ子は、ゲンちゃんが嫌い?」
櫛を動かすだだ子の手が、ふと止まった。
ちゃぷちゃぷと桶で揺れる湯の音が反響する。
見上げると、それまで真一文字に結んでいたはずの彼女の口が、わずかに弧を描いていた。
「門前払いをしても、聞く耳すら持たない東男です。本当に、毎度毎度……それが今や、屋敷の者たちを顎で使っている。女房達も、私以上に彼の言うことを聞くようになってしまって……」
噛み殺したような笑みを浮かべながら、だだ子は首を横に振った。
「何度注意しても、唐紙は破くし、御簾だって……。ですが、今日などは妻戸に立てばわかります。きっと、言葉通り『山』のような酒が置いてあることでしょう。少なくとも、口先だけで人を動かそうとする、傲慢な貴族どもよりは、よほどマシというものです」
深い眼差しを落としただだ子は、櫛を変え、慣れた手つきでかぐやの長い髪を梳き下ろした。
「……ふふっ」
なんとも、だだ子らしい言葉だ。
張りつめていた表情で聞いていたかぐやの唇から、ようやく笑みがこぼれた。
「笑っている場合ではありませんよ、宮様。ウダウダしていると、気の短い弦一郎様に何をされるか、わかったものじゃありませんからね」
だだ子に尻を叩かれても、かぐやは変わらずおっとりと、その心の内で歌を詠み上げた。
――かたくなの 大妖さえも 認めける 君と巡りて 逢ふ世うれしき。




