第十七首 月影の 隠す結界 いかにせむ 鋭き目にて 問う男かな
――いと楽し 旅の残りの 心憂さ ただうつぶせに 臥せるばかりぞ。
(意訳:とても楽しかった旅なのに、その後に残るこの体の気だるさは何なのでしょう。今はただ、寝転がるのが精いっぱい)
バカンス帰りのかぐやは、ひよひよと。
自室にこもり、赤子のように寝転がるばかり。
ちょうど散歩から帰ってきたのか、庭先から「ワンワン」と、柴犬のポチの元気な鳴き声が聞こえてくる。
――いっそのこと、犬になってしまいたい。
そんな思いに駆られるほど、彼女自身が参っていた。
要するに、暇であった。
――ポチの観察日記でもつけようかな。徒然なるままに。
平安著作権ギリギリのところを攻めるかぐやであったが、彼女を救うのは、徒然なるままに記すダイアリーではなく、唐紙越しに立つ、二つの影だった。
「姫宮様、夜風でございます。今日は景衡様も一緒に、お話をいかがでしょう?」
来た、来た。
影の正体を知り尽くしているかぐやは、パッと身を起こす。
「イタッ……」
その拍子に軽い腰痛に襲われたが、すぐに何事もない表情を作り直して、それから机に向かう。
これで主としての風格が醸し出せる。
そのまま返事をしようとしたかぐやだったが、時少し遅し。
唐紙の向こう側では、予想外のやり取りが始まっていた。
「いいよ、俺は……それより、宣旨はどこだ?」
「あな、何を仰られますやら! 姫宮様との交流も、大切なお仕事ですよ!」
夜風がずいぶんと張り切って、景衡を引っ張っている。
先輩風を吹かせたいのか、それとも……。
夜風もいい年ごろだ。
色恋の沙汰が、そうさせているのかもしれない。
いずれにせよ、うまくいっているようで何よりだ。
そう思ったかぐやは、顔を綻ばせながら静かに口を動かす。
「どうぞ」
「はい、失礼します。ほら、参りますよ、景衡様!」
「うるせぇな。わかったよ、まったく……」
言葉の調子とは裏腹に、二人はそよ風のように軽やかに部屋に入ってきた。
胸を張り、先頭を切るのは赤目の少女・夜風。
ここでの生活にも慣れてきたのか、今では『屋敷一のお調子者』として、皆に可愛がられるようになった。
かぐや自身も、流行の草紙を読み聞かせてやったり、プレゼントしたりして、夜風を可愛がっている。
そんな彼女の後ろに控えているのは、色黒の細長い男・景衡だった。
彼の場合は、磯で捕まえてきたばかりのニートということもあって、まだまだ海の香りが漂ってくるような、野性味が残る出で立ちを保っていた。
相も変わらず、くすぶったような、どこか達観したような、あるいはすべてを諦めたような、どうしようもない目つきをしている。
「座って?」
何はともあれ、志を同じくしたニートとして、かぐやは彼の訪問を歓迎した。
ところが景衡は坐するなり、口を閉ざして主人の身体をジロジロと、目が見えない夜風までもが、彼と同じように見つめてきた。
「ど、どうしたの?」
二人揃って、そんなことをされたら居心地が悪い。
いまいち主人然とできないかぐやは、ビクビクと尋ねた。
最初に口を開いたのは景衡の方だった。
「いや、なんでも……」
彼は目を逸らしながら、ゆっくりと首を横に振る。
――そんなわけない。十二単にタグが付いたまま、とか?
不安に思ったかぐやは、襟元に手を伸ばしてみたが何もない。
夜風がその場で座り直しながら、割って入ってくる。
「姫宮様、どこか、体が痛まれますか?」
それはもう、痛かった。
彼女の指摘によって、心のダメージを負ったかぐやは、優秀すぎる使用人も考え物だなと、心の中で一首詠む。
――主より 聡き臣下の 目に遭いて 隠す痛みの いや増さりけり。
(直訳:痛い、痛い、痛い。主人よりも賢い部下に見つめられて、隠そうとしていた腰の痛みがひどくなった気がする)
◇ ◇ ◇
――それから日は落ちて。
かぐやの隣には、愛しい弦一郎の姿があった。
二人だけの縁側に流れるのは特別な時間。
風はひんやりと冷たいが、かぐやの心を映し出すように、初秋の月は澄んだ夜空を静かに満たしていた。
「ほんで? 景衡の様子は、どうだった?」
「さすがに、まだ来たばかりだから」
「それもそうだな」
弦一郎にみるみる崩されていくお団子の山を横目に、かぐやは今日あった出来事を振り返る。
景衡はあれきり、ほとんど喋らなかった。
その大人しさは、宮中であれば不気味と捉えられるだろうが、生憎ここは数奇なる我が屋敷。
ここでは、静かな男がよしとされる今日この頃。
ぶっちゃければ、宣旨のだだ子の好みに過ぎないのだが……。
「噂をすれば、やってきたぞ?」
弦一郎の視線に誘われるように、庭の方へと目を向ける。
すると、そこには月明かりに照らされた影が、音もなく佇んでいた。
景衡だった。
「邪魔をしてすまない。宮様、少しだけ旦那を貸してくれないか?」
面食らったかぐやは、黙って弦一郎の顔を見ることしかできなかった。
景衡の突然の出現、突然の提案に、弦一郎は驚くこともなく、いつもの調子で団子を食べながら笑みを浮かべていた。
「なんだ? 夜風に対する苦情か?」
「それは……そうだが、そっちじゃない。この屋敷と……」
景衡はそこで言葉を切ると、昼間のようにジロリとかぐやを見つめた。
すると弦一郎は、咀嚼していた団子を一息に飲み込み、景衡に向けて言い放った。
「気を遣うなって。今、ここで話せ。お前が思っていることを言ってみろ」
「……あんた、何を隠してる? 中央より強固な結界なんて……一体、誰がそんなバカげた法力を持っている? この屋敷は何なんだ?」
気づいてしまったか。
思わず手を上げたくなったかぐやだったが、弦一郎の顔を見上げるのが先だった。
こちらを見下ろす彼の眼差しは「ちょっと待っていろ」と言っていた。
かぐやは大きく頷き、心の中で手を上げて、待機の姿勢をとった。




