第十五首 海原の 波間に得たる 君なれど ただ人ならぬ 匂ひすなりけり
――潮風か 彼の人の香か わかねども 胸つむばかり にほひ満ちたる。
(直訳:潮風の匂いかこの男の匂いか、わからないけど、ゲロみてぇな匂いがするぜ)
岩場の窪みに背を預け、佇んでいたのは一人の男。
壁際には開かれた魚なども干されていて、怪しき匂いがプンプンと漂う。
暖を取っているのか、調理用なのか、わからないが足元では火が焚かれている。
パチパチと薪が爆ぜる音の中、かぐやは地面に降ろされた。
そのまま反射的に弦一郎の背中に身を隠し、対面を果たした神主のせがれの姿を、よく見てみる。
赤茶けた色黒の肌に、髪は無造作に、肩まで伸びている。
顔は、思っていたよりも美形。
彫りは深いが、目はすわり、どこか達観したような雰囲気が全身から滲み出ている。
せがれは驚いた様子もなく、無精ヒゲを手で触りながら、ただ黙ってこちらをじっと見つめていた。
焚き火と、潮騒の音だけが響く岩場。
その静寂を破ったのは、やはり弦一郎だった。
「お前が、神主のせがれか」
「そういうお前は、何者だ?」
質問にちゃんと答えられない。
これはニートだと、かぐやは内心で大興奮。
弦一郎にしがみつく手に力を込めて、彼女は二人の会話に聞き入る。
「俺はこいつの婿だ」
「ふーん……麻呂かい。それだったらもっと、宮様にはへりくだった方がいいんじゃないか?」
――それな……でも、もしゲンちゃんがそういう人だったら、絶対に好きになってないから。
などと考えつつ、かぐやは弦一郎の手首を両手で掴み、前後にブンブンと振り回してみたりした。
「俺は『麻呂』じゃなくて『太夫』だ。お前も、本気出せば、なれるかもな?」
権威の気配をちらつかせてみた弦一郎に、せがれはどう出るか。
――きっと、興味ないんだろうなぁ。
かぐやの予想は的中する。
「ふーん……ってことは、武者かい。名前は?」
――やっぱりね。
彼女はしたり顔で、大樹の幹のようにガチガチの、弦一郎の横腹に抱きついた。
「橘弦一郎遠政だ」
「橘……坂東武者か。よく都にまで来れたな」
せがれは、わずかに前に傾いた身をスッと引いた。
かぐやの目には、心なしか、彼が弦一郎に興味を持ったように見えた。
「おう。ピクニック気分で来てみたら、今や宮様の婿だよ。それより、そっちの話をしよう。名前は?」
弦一郎は、言葉巧みに主導権を取り戻す。
するとせがれは、無精ヒゲをガリガリと掻き、面倒くさそうに吐き捨てた。
「……朔望景衡」
――あれぇ? 聞いたことがある。
かぐやは弦一郎の後ろから、さらに首を伸ばして、もう一度、景衡とやらの顔を覗いてみた。
「なんだよ?」
――怖い。
景衡にギロリと睨まれたかぐやは、伸ばしていた首を亀のように引っ込め、心臓がドキドキバクバク。
――気のせい、気のせい。
ガッツを失ったかぐやは、そう思うことにした。
「あんまり、虐めてくれるな。こいつのメンタルは、兎より弱くてな」
すぐさま弦一郎が守ってくれる。
ところが景衡ときたら、ふふんと鼻であざ笑って、それから一言。
「いいなぁ、お気楽な身分にあらされる御方は」
これには、さすがのかぐやも腹を立てる。
――なんだ、その言い方は働いていないくせに、この。
自分のことを棚に上げ、彼女はサッと横に飛び出す。
「あなたのお父様が、嘆いていらっしゃいますけども?」
どうだと言わんばかりに、かぐやは景衡の顔を見上げる。
相手は表情もなく、こちらを睨んでいた。
――怖い。
すぐさま反復横跳びをして、弦一郎の後ろに隠れる。
さらには彼に、フォローまでしてもらう羽目になった。
「まあ、そういうことだ。それについては、どう思ってる?」
岩場の窪みに海風が吹きつける。
強い風を受けた焚き火からは、蛍の乱舞のように火の粉が舞い上がった。
風は一瞬で凪ぎ、しばらくの沈黙が訪れる。
弦一郎も何も言わない。
一体どうなってしまったのかと、かぐやは再び、彼の背中から顔を出した。
景衡は何をするでもなく、穏やかに揺れる焚き火を見つめていた。
やがて彼は、ふっと軽く息をつき、ここではない、どこか遠くを見つめながら、その口を動かし始めた。
「……どうもこうも、そのままだ。あの神社は親父がまわしている。『任命』もされていない俺に、出番なんてないだろう」
任命。
そうだ、とかぐやは思い出す。
この敷地内にある朔望大社は、私的な神社。
事務処理を任せている家司の書類か何かで、この男の名前を見かけたことがある。
景衡が任命されていない理由は、おそらくガチガチの世襲制が絡んで、あの魚のように、干されていらっしゃるからだ。
いかに才覚があろうとも、そこが突破できなければ、臭い生活を送らなければならないのか。
あの魚のように……。
「あのお魚は、食べられるのですか?」
考えていたら、お腹が空いてきたかぐやは、話とは関係のない、魚に気を取られる。
「ああ、食えるよ。炙ってやろうか?」
「いや、いくらなんでも、それは……」
言っておいて遠慮する。
姫宮として、平安しぐさを欠かさないかぐや。
しかし、景衡も弦一郎と同じ『話を聞かない族』だったらしい。
彼は手早く魚を取ると、目の前にある焚き火を使って、じっくりと身を炙り始めた。
沈黙を守っていた弦一郎は、フンと鼻を鳴らして、火の近くに座り込んでしまった。
仕方がないので、かぐやも歩を進めて、弦一郎の斜め後ろに腰を落ち着ける。
「食うに困らず、か」
「そんなことはないさ。魚が取れない日は、不思議と続いたりする。だが、毎度のように、ギリギリのところでどうにかなる……天命について、考えさせられるよ」
「まぁ、確かに。自分の力ではどうにもできない『巡り合わせ』っていうのは、あるわな」
あれだけ臭かった魚が火で温められて、いい匂いがしてくる。
景衡に必要なものもまた、そういったものなのかもしれない。
男たちの会話に引っ張られて、哲学的な気分にさせられたかぐやは、ひっそりとそんなことを思った。
「『巡り合わせ』か。どうなんだ? あんた、武者なんだろう? 天命について何か、感じ取ったりしたことはあるのか?」
「終わってみれば、ってやつだな。なにかをしているときに、それを感じることはない。ただ、こうやって火にあたっていると、ふと感じたりすることはある」
男たちは、なおも深い会話を重ねていった。
弦一郎の言わんとするところがわかったのか、景衡は魚をひっくり返しながら何度か、小さく頷いていた。
「……で、結局、あんたらは何しに来たんだ? わざわざこんなところまで来て、俺に道理を説きに来たってのか?」
「そういうことだ。うちには、盲のガキがいる。そいつの世話役を探していてな。お前、やってみないか?」
「なんで俺が、見知らぬガキのケツなんか、拭かなきゃならないんだ?」
突然の誘いに、景衡は当然いい顔をしない。
弦一郎の真意を図れなかったかぐやは、彼の横顔を眺めた。
そこにあったのは口の端を上げて笑う、いつもの、勝利の笑みだった。
「お前は感じないのか? 今、このときの『巡り合わせ』を」
強引で、都合の良いアプローチ。
だが、そこにあったのは巧妙な計略。
景衡が『天命』について語ってしまった手前、ここで拒絶すれば、自身の哲学を自らが否定することになってしまう。
もはや道は拓かれた。
しかし敵もさるもの、最後の抵抗をみせる。
「ずいぶんと……口が立つようで。それが、坂東武者が都で生き残る秘訣か?」
景衡は出会ったときのように、弦一郎をまっすぐに見据えていた。
少し違っていたのは、彼が初めて、笑顔らしいものを浮かべていたことだった。
何も答えず、愉快そうに片方だけ眉を上げた弦一郎を見て、景衡は観念する。
「……わかったよ。ただ、肌に合わなければ、遠慮なく逃げさせてもらう。それでいいだろう?」
ニート、ゲット。
弦一郎の鮮やかな手口を目の当たりにしたかぐやは、心の中で――。
「ほら、焼けたぞ。宮様」
「いただきます」
焼き立ての干物の美味しいところを、きっちりといただいてから、心の中で一首詠む。
――うつせみの 干魚と見れど 火に添へば 今を盛りの 味ぞ満ちゆく。
(意訳:一見して、食べられないような干物に見えても、火で炙ればあら不思議。獲れたてにも劣らない味わいが広がるものです)




