9話 触れた指先
雪は、夜になっても降り続いていた。
『Nordlicht』の閉店後。
店内には暖かな灯りが残り、窓の外だけが静かな白に包まれている。
「……積もりそうですね」
ユヅキが窓の外を見ながら言うと、
「明日の朝やばそう」
とレオンが苦笑した。
今日は客が少なかった。
雪の日は、街全体の時間がゆっくりになる。
ユヅキはカウンター席で、ぼんやりマグカップを両手で包んでいた。
レオンは閉店後の片付けをしている。
「手伝います」
気づけば、そう言って立ち上がっていた。
「いい」
「でも一人だと大変じゃないですか?」
「客に働かせたら怒られる」
「客じゃなくて常連です」
レオンは少し吹き出した。
「自分で言うな」
でも結局、ユヅキは皿を運ぶ係を任された。
厨房へ入るのは初めてだった。
奥は思ったより狭い。
甘いバターの匂い。
焼きたてのパンの熱がまだ少し残っている。
「わ」
シンクへ皿を置こうとした瞬間、足元が滑った。
「危な――」
ぐっと腕を掴まれる。
一瞬だった。
でも、レオンの手の熱だけがやけに鮮明に残る。
「……大丈夫?」
低い声が近い。
ユヅキは顔を上げた。
近かった。
思っていたよりずっと。
レオンの黒い睫毛まで見える距離。
「……すみません」
慌てて身体を離す。
でも掴まれた腕だけ、熱が消えない。
「だから言っただろ、働かせると危ないって」
レオンは何事もなかったみたいに皿を受け取る。
けれどユヅキは、しばらく心臓がうるさかった。
厨房の窓には雪が映っている。
白い夜。
静かな空気。
「ユヅキ」
名前を呼ばれて振り向く。
「その皿、そっち」
「あ、はい」
また慌てる。
レオンが小さく笑った。
「今日なんか変」
「……レオンさんのせいです」
「なんで俺」
「急に掴むから」
その瞬間、レオンが少し黙る。
「ああ……悪い」
珍しく、少し困ったみたいな顔だった。
ユヅキはそれ以上何も言えなくなる。
自分だけ意識しているみたいで恥ずかしかった。
片付けが終わる頃には、雪はさらに深くなっていた。
店の前の石畳もうっすら白い。
「送る」
レオンがコートを羽織りながら言う。
「大丈夫です」
「転ぶ」
「さっきだけです」
「信用ない」
外へ出る。
吐く息が白い。
並んで歩くと、雪を踏む音だけが静かに響いた。
ふと、レオンが足を止める。
「寒い?」
「少し」
次の瞬間、レオンが自分のポケットからカイロを取り出した。
「ほら」
「え」
「クララが大量に置いてったやつ」
ユヅキが受け取ろうとした瞬間。
また、指先が触れた。
ほんの一瞬。
なのに胸が苦しくなるくらい熱かった。
レオンは気づいていないみたいに前を向いて歩き出す。
でもユヅキだけが、その小さな温度を忘れられずにいた。
雪の降る異国の街で。
ユヅキは初めて、“誰かに触れられること”をこんなに意識している自分に気づいてしまった。




