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異国のカフェで、壊れかけた私を拾ったのは無愛想な菓子職人でした  作者: 深町 灯


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8話 雪の匂い

 夜のリューベルは静かだった。


 閉店後の『Nordlicht』には、食器を洗う水音だけが響いている。


 


「ごめん、今日ちょっと遅くなる」


 クララはコートを羽織りながら言った。


「先帰ってていい?」


「ああ」


 レオンが短く返事をする。


 


 ユヅキはカウンター席で、そのやり取りをぼんやり聞いていた。


 今日は珍しく閉店近くまで店にいた。


 帰ろうと思ったのに、外の雪が強くなってしまったのだ。


 


「ユヅキも、もう少し待ってた方がいい」


 クララが窓の外を見ながら言う。


「今かなり降ってるから」


「……そうします」


 


 クララが帰ると、店は急に静かになった。


 広かった店内が、少しだけ違う場所みたいに感じる。


 


 レオンは厨房で明日の仕込みをしていた。


 時々聞こえるオーブンの音。


 バターの香り。


 温かな空気。


 


「暇」


 不意にレオンが言った。


 ユヅキは思わず笑う。


「追い出します?」


「雪の中で迷子になられても困る」


「だからもう迷子になりませんって」


「信用ない」


 


 レオンはそう言いながら、カウンターへマグカップを置いた。


「飲む?」


 中には湯気の立つホットワイン。


 オレンジの香りがふわっと広がる。


 


「……お酒ですか?」


「少しだけ」


 ユヅキは迷った末、小さく頷いた。


 


 一口飲む。


 甘い。


 でもあとからじんわり熱が広がっていく。


 


「美味しい……」


「だろ」


 レオンは少し得意そうに笑った。


 


 窓の外では雪が静かに降り続いている。


 街灯の光の中を、白い粒がゆっくり落ちていく。


 


「日本の雪と違う」


 ユヅキが呟く。


「そう?」


「なんか、静かです」


 


 日本の雪は、もっと慌ただしかった気がする。


 電車が止まるとか。


 転ばないように急ぐとか。


 誰かが困るとか。


 


 でもここでは、雪がただ静かに降っている。


 


「雪の匂いするな」


 レオンがぽつりと言った。


「匂い?」


「わからない?」


 


 ユヅキは少し考えて、外を見る。


 冷たい空気。


 白い夜。


 吐く息。


 


「……あ」


「だろ」


 


 説明できない。


 でも確かに、雪の日だけの匂いがある。


 


 ユヅキは窓ガラスへ額を寄せた。


「日本にいた時、こんな風に雪見たことなかったかも」


「忙しかった?」


 


 ユヅキは少し黙る。


「……多分」


 看護師だった頃は、冬も関係なく忙しかった。


 夜勤。


 申し送り。


 ナースコール。


 常に時間に追われていた。


 


 雪が降っていても、“綺麗”なんて思う余裕はなかった。


 


「今は?」


 レオンが聞く。


 


 ユヅキは窓の外を見たまま、小さく笑った。


「今は、ちゃんと見えてる気がします」


 


 その瞬間、レオンが少しだけ目を細めた。


 何か言いかけて、でも結局何も言わない。


 


 店内には柔らかな灯りが落ちている。


 静かな夜。


 甘い焼き菓子の匂い。


 遠くで鳴るトラムの音。


 


 ユヅキはホットワインを両手で包み込みながら思った。


 


 もし、この冬が終わってしまっても。


 今日の雪の匂いだけは、きっと忘れない。

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