第7話 知らない横顔
土曜日の午後だった。
語学学校が休みの日は、時間の流れが少し違う。
朝は娘を学校へ送り出さなくていいし、宿題に追われることもない。
なのにユヅキは、昼過ぎにはもう落ち着かなくなっていた。
「……行きたいんだ、私」
誰もいない部屋で小さく呟く。
向かう先を考えた瞬間、少しだけ苦笑した。
外は曇り空だった。
リューベルの冬は、青空の方が珍しい。
石畳を歩きながら、ユヅキはマフラーへ顔を埋める。
冷たい風。
遠くで鳴るトラムの音。
いつの間にか、この街の空気にも少し慣れてきていた。
『Nordlicht』の扉を開ける。
ベルが鳴った瞬間、いつもの甘い匂いが広がった。
でも今日は、少し様子が違った。
店内が混んでいる。
テーブル席はほとんど埋まり、レジ前には小さな列までできていた。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
カウンターの奥では、レオンが慌ただしく動いていた。
コーヒーを淹れ、パンを並べ、客に声をかける。
普段の気だるそうな空気とは全然違う。
「Danke!」
「Bis morgen!」
流れるようなドイツ語。
軽く笑う横顔。
客と自然に会話する姿。
ユヅキは少し驚いて、その場に立ち尽くした。
――知らなかった。
レオンはいつも、静かで、少し不機嫌そうで、面倒くさそうに見えていた。
でも今は違う。
ちゃんと店の人で。
この街の人だった。
「ユヅキ?」
声をかけられて顔を上げる。
クララだった。
「あ、ごめんね、今日すごく混んでて」
「いえ、大丈夫です」
「座れる? 奥なら空いてるかも」
ユヅキは小さく頷き、窓際の端の席へ座った。
でも視線は無意識にレオンを追ってしまう。
レオンは忙しそうに働きながらも、時々客を笑わせていた。
年配の常連客らしい男性と冗談を言い合い、小さな女の子にはクッキーをおまけしている。
その横顔を見ていると、胸の奥が少しざわついた。
自分の知らない時間が、この人にはちゃんとある。
それがなぜか、少し寂しかった。
「何飲む?」
気づけば、レオンが目の前に立っていた。
「……え?」
「ぼーっとしてた」
ユヅキは慌ててメニューを見るふりをする。
「カフェラテで」
「了解」
レオンはすぐ仕事へ戻っていく。
その背中を見送りながら、ユヅキは小さく息を吐いた。
しばらくして運ばれてきたカフェラテは、ハートのラテアートが描かれていた。
ユヅキは思わず目を丸くする。
「これ……」
「クララ作」
レオンが言う。
「俺、細かいの苦手」
そう言いながら、レオンはカップの向きを少しだけ直した。
ハートがユヅキ側から綺麗に見えるように。
そのさりげない仕草に、また胸が小さく揺れる。
外では雪が降り始めていた。
賑やかな店内。
コーヒーの香り。
誰かの笑い声。
ユヅキは温かなカップを両手で包み込みながら、ぼんやり思う。
私はきっと。
この店だけじゃなくて。
この人に、会いに来ている。




