6話 「名前で呼ばれる」
語学学校の授業が終わる頃には、外はもう薄暗くなっていた。
教室の窓には小さな雨粒が張りつき、灰色の空をぼんやり滲ませている。
「Tschüss!」
クラスメイトたちが笑いながら帰っていく。
ユヅキも小さく手を振った。
でも、輪の中へ入る勇気はまだない。
みんな優しい。
だけど、言葉についていけない。
会話のテンポに乗れない。
笑うタイミングすら少し遅れる。
帰り道、ユヅキは無意識に『Nordlicht』の前まで来ていた。
最近、自分でも怖いくらい自然に足が向く。
店の扉を開ける。
ベルの音。
甘い焼き菓子の香り。
その瞬間、肩の力が抜ける。
「いらっしゃ――」
カウンターにいた女性が顔を上げた。
金髪を後ろでまとめた、三十代くらいの女性。
「あれ、新しいお客さん?」
ユヅキが少し戸惑っていると、奥からレオンが出てきた。
「ああ、その人常連」
「常連!?」
ユヅキは思わず声を上げる。
レオンは気にした様子もなくエプロンを直した。
「毎週来てるだろ」
「まだそんなに来てません!」
「もう顔覚えてる」
女性が楽しそうに笑う。
「レオンが常連扱いするの珍しい」
「別に」
ユヅキはなんだか落ち着かなくなって、マフラーを握りしめた。
「私はクララ」
女性がにこやかに言う。
「ここで働いてるの」
「ユヅキです」
「知ってる。レオンから聞いた」
ユヅキは思わずレオンを見る。
レオンはコーヒーマシンを触りながら、
「名前くらい話すだろ」
とぶっきらぼうに言った。
その瞬間、なぜか胸が少し熱くなる。
名前を覚えられていた。
それだけなのに。
「今日どうする?」
クララがショーケースを指す。
「アップルパイ、今焼きたて」
「じゃあ、それで」
窓際の席へ座る。
外では雨が静かに降り続いていた。
「ユヅキって、日本で何してたの?」
クララがコーヒーを運びながら聞く。
「看護師です」
「へえ!」
クララは目を丸くした。
「すごいじゃない」
「全然です」
反射みたいに否定してしまう。
クララは少し不思議そうな顔をした。
「レオンのお母さんも看護師だったよ」
その言葉に、ユヅキは顔を上げる。
「そうなんですか?」
「昔ね」
クララが笑いながらレオンを見る。
でもレオンは無言のまま、パン生地をこねていた。
店内にはバターの香りが広がっている。
外は寒いのに、ここだけ少し暖かい。
「ユヅキ」
レオンが不意に呼ぶ。
「はい?」
「砂糖いる?」
それだけだった。
それだけなのに、ユヅキは一瞬返事が遅れる。
「……お願いします」
レオンは無言で砂糖瓶をテーブルへ置く。
クララがその様子を見て、少しだけ意味ありげに笑った。
帰る頃には、雨は雪へ変わっていた。
店の前でマフラーを巻き直していると、レオンが扉を押さえたまま言う。
「転ぶなよ」
「子どもじゃないです」
「この前迷子になって泣いてたろ」
「それもう忘れてください!」
レオンが少し笑う。
その顔を見た瞬間、ユヅキの胸が小さく跳ねた。
冷たい雪が頬へ落ちる。
でも今日は、不思議と寒くなかった。
この街で。
この店で。
“ユヅキ”という名前を呼ばれるたび、少しずつ自分がここにいてもいい気がしていた。




