表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異国のカフェで、壊れかけた私を拾ったのは無愛想な菓子職人でした  作者: 深町 灯


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/50

6話 「名前で呼ばれる」

 語学学校の授業が終わる頃には、外はもう薄暗くなっていた。


 教室の窓には小さな雨粒が張りつき、灰色の空をぼんやり滲ませている。


 


「Tschüss!」


 クラスメイトたちが笑いながら帰っていく。


 ユヅキも小さく手を振った。


 でも、輪の中へ入る勇気はまだない。


 みんな優しい。


 だけど、言葉についていけない。


 会話のテンポに乗れない。


 笑うタイミングすら少し遅れる。


 


 帰り道、ユヅキは無意識に『Nordlicht』の前まで来ていた。


 最近、自分でも怖いくらい自然に足が向く。


 


 店の扉を開ける。


 ベルの音。


 甘い焼き菓子の香り。


 その瞬間、肩の力が抜ける。


 


「いらっしゃ――」


 カウンターにいた女性が顔を上げた。


 金髪を後ろでまとめた、三十代くらいの女性。


「あれ、新しいお客さん?」


 


 ユヅキが少し戸惑っていると、奥からレオンが出てきた。


「ああ、その人常連」


「常連!?」


 ユヅキは思わず声を上げる。


 レオンは気にした様子もなくエプロンを直した。


「毎週来てるだろ」


「まだそんなに来てません!」


「もう顔覚えてる」


 


 女性が楽しそうに笑う。


「レオンが常連扱いするの珍しい」


「別に」


 


 ユヅキはなんだか落ち着かなくなって、マフラーを握りしめた。


 


「私はクララ」


 女性がにこやかに言う。


「ここで働いてるの」


「ユヅキです」


「知ってる。レオンから聞いた」


 


 ユヅキは思わずレオンを見る。


 レオンはコーヒーマシンを触りながら、


「名前くらい話すだろ」


 とぶっきらぼうに言った。


 


 その瞬間、なぜか胸が少し熱くなる。


 名前を覚えられていた。


 それだけなのに。


 


「今日どうする?」


 クララがショーケースを指す。


「アップルパイ、今焼きたて」


「じゃあ、それで」


 


 窓際の席へ座る。


 外では雨が静かに降り続いていた。


 


「ユヅキって、日本で何してたの?」


 クララがコーヒーを運びながら聞く。


「看護師です」


「へえ!」


 クララは目を丸くした。


「すごいじゃない」


「全然です」


 


 反射みたいに否定してしまう。


 クララは少し不思議そうな顔をした。


 


「レオンのお母さんも看護師だったよ」


 その言葉に、ユヅキは顔を上げる。


「そうなんですか?」


「昔ね」


 クララが笑いながらレオンを見る。


 でもレオンは無言のまま、パン生地をこねていた。


 


 店内にはバターの香りが広がっている。


 外は寒いのに、ここだけ少し暖かい。


 


「ユヅキ」


 レオンが不意に呼ぶ。


「はい?」


「砂糖いる?」


 それだけだった。


 それだけなのに、ユヅキは一瞬返事が遅れる。


 


「……お願いします」


 


 レオンは無言で砂糖瓶をテーブルへ置く。


 クララがその様子を見て、少しだけ意味ありげに笑った。


 


 帰る頃には、雨は雪へ変わっていた。


 店の前でマフラーを巻き直していると、レオンが扉を押さえたまま言う。


「転ぶなよ」


「子どもじゃないです」


「この前迷子になって泣いてたろ」


「それもう忘れてください!」


 


 レオンが少し笑う。


 その顔を見た瞬間、ユヅキの胸が小さく跳ねた。


 


 冷たい雪が頬へ落ちる。


 でも今日は、不思議と寒くなかった。


 この街で。


 この店で。


 “ユヅキ”という名前を呼ばれるたび、少しずつ自分がここにいてもいい気がしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ