5話 「閉店後の灯り」
その日は、語学学校の宿題が異常に多かった。
ドイツ語の作文。
単語テスト。
聞き取り問題。
慣れない文法を前に、ユヅキはノートへ突っ伏したくなる。
「……無理」
小さく呟きながら窓の外を見る。
午後五時なのに、もう外は暗い。
夫からは、
『今日も遅くなる』
とだけメッセージが来ていた。
娘は宿題を終えて、先に寝室で動画を見ている。
静かだった。
静かすぎて、余計に孤独が大きくなる。
気づけばユヅキはコートを羽織っていた。
外へ出る。
冷たい風。
白い息。
石畳を踏む音。
向かう先は、もう考えなくてもわかっていた。
『Nordlicht』の灯りが見えた瞬間、胸の奥が少しだけ緩む。
扉を開けると、ベルが小さく鳴った。
「……珍しい時間」
レオンがカウンターの奥で顔を上げる。
時計を見ると、閉店まであと三十分だった。
「迷惑でした?」
「別に」
店内には誰もいない。
コーヒーマシンの低い音だけが静かに響いている。
「なんか疲れてるな」
レオンが言う。
ユヅキは苦笑した。
「わかります?」
「顔」
それだけ言われて、少し笑ってしまう。
ユヅキは窓際の席へ座った。
外では雪混じりの雨が降り始めている。
「何飲む」
「……甘いの」
「雑だな注文」
「疲れてるんです」
レオンは呆れた顔をしながら、カウンターの奥へ消える。
しばらくして運ばれてきたのは、大きなホットチョコレートだった。
表面にはたっぷりの生クリーム。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
「子どもみたいな顔するな」
「だって嬉しいんです」
一口飲む。
濃厚な甘さが、冷えた身体にゆっくり広がっていく。
その瞬間、張っていた糸が少しだけ緩んだ気がした。
「語学学校?」
レオンが向かい側の椅子へ腰掛ける。
「宿題が多すぎて」
「真面目に全部やるからだろ」
「やらないと不安なんです」
レオンは少し黙ったあと、ぽつりと言った。
「ユヅキって、“ちゃんとしなきゃ”強そう」
ユヅキは言葉に詰まる。
その通りだった。
ちゃんとした社会人。
ちゃんとした母親。
ちゃんとした妻。
ちゃんとした看護師。
ずっと、そうでいようとしてきた。
「別に、少しくらい出来なくても死なない」
レオンはコーヒーを飲みながら言う。
「ドイツ人なんか適当だぞ」
「それは最近ちょっと思います」
「だろ?」
ユヅキは思わず笑ってしまった。
久しぶりだった。
こんな風に、自然に笑ったの。
閉店時間が近づき、店の灯りが少し落とされる。
外はすっかり夜になっていた。
「帰るか」
レオンが立ち上がる。
ユヅキも慌てて鞄を持った。
店の外へ出ると、空気は刺すように冷たい。
でも、さっきまで感じていた孤独は少し薄れていた。
「また宿題無理になったら来ます」
冗談半分で言うと、
「毎日来そうだな」
とレオンが笑う。
その横顔を見た瞬間、ユヅキは少しだけ驚いた。
この人、ちゃんと笑うんだ。
雪が静かに降っている。
異国の冬の街で。
ユヅキは初めて、“明日もここへ来たい”と思っていた。




