4話 「雨の日のアップルパイ」
リューベルでは、雨がよく降る。
雪になるほど寒くない日には、空は決まって鈍い灰色になった。
語学学校の帰り道、ユヅキはマフラーを握りながら早足で歩く。
冷たい雨粒がコートに当たって、小さな音を立てていた。
「……寒い」
思わず漏れた声は、白くならない。
少しだけ冬が緩み始めている。
でも、この街の空気はまだ十分冷たかった。
角を曲がった瞬間、見慣れた灯りが見える。
『Nordlicht』。
ユヅキは気づかないふりをしようとして、結局できなかった。
扉を開ける。
ベルの音。
甘い匂い。
暖房の熱。
その全部に、ほっとしてしまう自分がいる。
「……また来た」
カウンターの奥でレオンが呟く。
「悪いですか」
「いや。もう常連だなと思って」
ユヅキは少しだけむっとした。
「まだ三回目です」
「十分だろ」
今日は客が少なかった。
窓際に若いカップルが一組いるだけ。
雨音が静かに店内へ響いている。
「何食べる」
レオンがショーケースを閉めながら聞く。
ユヅキはガラス越しに並ぶ焼き菓子を見つめた。
どれも美味しそうだった。
「……おすすめありますか」
「またそれ」
「だってわからないんです」
レオンは少し考えてから、奥の皿を指した。
「アップルパイ」
「それにします」
しばらくして運ばれてきたパイは、まだ少し温かかった。
焼いた林檎の甘い香り。
薄いパイ生地の層。
一口食べた瞬間、思わず目を丸くする。
「……美味しい」
「そりゃよかった」
レオンは特に興味なさそうにコーヒー豆を挽いている。
でも耳だけはこちらを向いている気がした。
「レオンさんって」
ユヅキはフォークを持ったまま聞いた。
「ずっとここにいるんですか?」
「まあ」
「ドイツの人?」
「半分」
レオンは短く答える。
「母親が日本人」
ユヅキは少し驚いた。
そう言われると、目元が少し日本人っぽい気もする。
「日本語上手ですね」
「小さい頃だけ住んでた」
「へえ……」
不思議だった。
この人のことを、まだ何も知らない。
なのに、なぜか話していると少し安心する。
窓の外では雨が強くなっていた。
石畳を濡らす音が静かに続いている。
「ユヅキ」
不意に名前を呼ばれて、心臓が小さく跳ねた。
「はい?」
「甘いの好きなんだな」
視線の先には、空になった皿。
ユヅキは少し恥ずかしくなる。
「疲れてると食べたくなるんです」
「語学学校、そんな疲れる?」
「毎日テストされてる気分になります」
レオンは小さく笑った。
「生真面目だな」
「悪いですか」
「別に。でも、力抜いた方が生きやすいぞ」
その言葉が、なぜか胸に残る。
日本にいた頃。
“力を抜いて生きる方法”なんて、誰も教えてくれなかった。
ユヅキは温かいコーヒーカップを両手で包み込みながら、窓の外を見た。
雨で滲む街灯。
知らない街。
知らない言葉。
なのに今だけは、この小さな店の中が世界で一番安心できる場所みたいに感じた。




