3話 「もう来ないと思っていた」
翌朝、ユヅキは何度もスマホの地図を確認しながら歩いていた。
空は相変わらず灰色だったけれど、昨日ほど寒くはない。
駅も間違えていない。
多分、大丈夫。
語学学校の授業を終えた頃には、頭がひどく疲れていた。
先生のドイツ語は速いし、クラスメイトたちは思ったよりずっと話せる。
自己紹介だけで精一杯だったユヅキは、帰る頃には完全に気力を失っていた。
トラムを降り、冷たい風に吹かれながら歩く。
その時だった。
ふわり、と甘い匂いがした。
シナモン。
バター。
焼きたてのパン。
ユヅキは足を止める。
顔を上げた先には、小さな灯り。
『Nordlicht』の看板が見えた。
「……」
少し迷う。
昨日は偶然だった。
泣いて、迷って、たまたま入っただけ。
今日は別に来る理由なんてない。
なのに気づけば、扉を開けていた。
カラン、とベルが鳴る。
「いらっしゃ――」
カウンターの奥にいたレオンが顔を上げる。
そして少しだけ目を細めた。
「……また来たのか」
「悪いですか」
「別に」
相変わらず愛想がない。
でも昨日ほど怖く感じないのは、多分この店の匂いのせいだ。
「今日は迷ってないです」
ユヅキが言うと、レオンはコーヒーカップを拭きながら鼻で笑った。
「成長したな」
「子ども扱いやめてもらえます?」
「昨日泣いてた人が何言ってんだ」
ユヅキはむっとしながら、窓際の席へ座る。
店内には客が一人だけいた。
新聞を読んでいる年配の男性。
静かな午後だった。
「何飲む」
レオンがメニューも持たずに聞く。
ユヅキは慌てて壁のメニューを見上げた。
でもドイツ語ばかりでよくわからない。
「……おすすめで」
「観光客みたいな注文だな」
「仕方ないじゃないですか、読めないんだから」
レオンは少しだけ笑った気がした。
しばらくして運ばれてきたのは、大きなマグカップだった。
泡立ったミルクに、ココアパウダーがかかっている。
「カフェラテ」
「ありがとうございます」
カップを持つと、じんわり指先が温まる。
「語学学校どうだった」
ユヅキは思わず苦笑した。
「全然聞き取れなかったです」
「最初はそんなもん」
「みんな普通に話してるのに、私だけ全然駄目で」
言いながら、胸が少し苦しくなる。
また置いていかれている気がした。
「別に急がなくていいだろ」
レオンはさらっと言う。
「住んでりゃそのうち覚える」
「そんな簡単ですか?」
「簡単じゃない。でも死なない」
ユヅキは思わず吹き出した。
「適当……」
「真面目すぎるんだよ」
その言葉に、少しだけ胸が詰まる。
日本でも何度か言われたことがあった。
でも、大抵は“もっと力を抜け”という意味ではなく、“面倒くさい”というニュアンスだった。
けれどレオンの言い方は違った。
ただ、本当に不思議そうに言っているだけだった。
窓の外では、灰色の空からまた小さな雪が落ち始めている。
ユヅキは温かいカフェラテを飲みながら、ぼんやり思った。
――もう来ないと思っていたのに。
多分、自分はまたここへ来る。




