2話 「甘い匂いのする場所」
店の中は、不思議なくらい静かだった。
外では雪混じりの雨が降っているのに、ここだけ別の世界みたいに暖かい。
ユヅキは両手でマグカップを包み込みながら、小さく息を吐いた。
目の前のシナモンロールから、甘い香りが立ちのぼっている。
「食べないの?」
低い声がした。
顔を上げると、さっきの男がカウンターの奥でコーヒーカップを洗っていた。
「……いただきます」
ユヅキは小さく答えて、そっとシナモンロールを口に運ぶ。
柔らかかった。
バターの香りと、少し強めのシナモン。
じんわり甘い。
その瞬間、不意に涙が出そうになる。
「なんで泣きそうになるんだよ」
男が呆れた声を出す。
ユヅキは慌てて首を振った。
「違います、これ……美味しくて」
「変なやつ」
失礼だ。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
店内を見回す。
小さな菓子店だった。
木の棚には焼き菓子が並び、窓際には二人掛けのテーブルが三つだけ置かれている。
派手さはない。
でも、どこか落ち着く。
「旅行?」
男が聞く。
「……いえ」
ユヅキは少し迷ってから答えた。
「夫の仕事で」
「ああ、駐在」
その言い方に、少しだけ胸がちくりとする。
駐在妻。
最近、自分が“誰かの付属品”みたいに感じる時があった。
「で、道に迷って泣いた?」
「……はい」
男は吹き出した。
「子どもか」
「笑わなくてもいいじゃないですか」
「いや、こんな冬にスマホ見ながら半泣きで歩いてる日本人いたらびっくりするだろ」
ユヅキは恥ずかしくなって俯いた。
でも久しぶりだった。
こんな風に、気を遣わずに話すの。
「名前」
不意に男が言う。
「え?」
「名前、なんていうの」
「……ユヅキです」
「ふーん」
男はカップを拭きながら頷く。
「俺はレオン」
その名前が、なぜか少しだけこの店に似合っていた。
「語学学校どこ?」
ユヅキが学校名を伝えると、レオンは眉を上げる。
「逆方向」
「え?」
「駅、完全に間違えてる」
ユヅキは思わず顔を覆った。
「うそ……」
「いや本当」
レオンはため息をつくと、壁に掛けてあったコートを手に取った。
「送る」
「大丈夫です!」
「またどっかで泣かれても困る」
「泣きません!」
「どうだか」
外へ出ると、空気はさらに冷えていた。
雪は小さな雨に変わっている。
石畳が街灯を反射して、ぼんやり光っていた。
レオンは無言で歩く。
ユヅキはその少し後ろをついていった。
「……あの」
「なに」
「ありがとうございました」
レオンは振り返らないまま答える。
「別に」
でも、その声はさっきより少しだけ柔らかかった。
駅へ向かう途中、ユヅキはちらりと店を振り返る。
小さな灯り。
窓ガラスの向こうに並ぶ焼き菓子。
『Nordlicht』という看板。
異国の街で初めて見つけた、“少しだけ息ができる場所”のような気がした。




