1話 「冬の街で、泣いた日」
北ドイツの冬は、思っていたよりずっと暗かった。
午後四時を過ぎる頃には空が灰色に沈み、街の灯りだけが静かに浮かび上がる。
ユヅキはマフラーに顔を埋めながら、見知らぬ石畳の道を歩いていた。
冷たい風が頬を刺す。
スマホの地図は何度見ても現在地がわからない。
語学学校へ向かう途中だった。
駅を一つ間違えたことまでは覚えている。
けれど、気づいた時にはもう、どこにいるのかわからなくなっていた。
「……最悪」
白い息と一緒に言葉が漏れる。
周囲から聞こえるドイツ語は、まだ雑音みたいにしか聞き取れない。
パン屋らしい香り。
遠くを走るトラムの音。
クリスマスマーケット帰りらしい人たちの笑い声。
街は綺麗だった。
でも、ユヅキには全部遠い世界みたいに感じた。
ドイツへ来て三か月。
夫の海外赴任について来たはずだった。
最初は、新しい生活になると思っていた。
少しくらい、自分も変われるんじゃないかと。
でも現実は違った。
言葉がわからない。
友達もいない。
夫は仕事で帰宅が遅い。
娘は学校に慣れ始めているのに、自分だけが取り残されていく。
日本で看護師として働いていた頃も、毎日必死だった。
失敗しないように。
迷惑をかけないように。
ちゃんとした大人に見えるように。
気づけば、ずっと息を止めて生きていた。
なのにドイツへ来ても、結局うまく笑えない。
視界がぼやける。
気づいた時には、涙が頬を伝っていた。
「……なんで」
自分でもわからなかった。
寒さのせいなのか。
孤独なのか。
ただ、急に限界が来たみたいだった。
「おい」
低い声がした。
ユヅキは慌てて顔を上げる。
少し先に、小さな店があった。
ガラス越しに暖かな灯りが見える。
看板には、
『Nordlicht』
と書かれていた。
店の扉が半分開いている。
そこに立っていたのは、黒いエプロン姿の男だった。
背が高い。
無愛想そうな目。
まだ若いのに、妙に疲れた空気をまとっている。
「泣くなら店の前じゃなくて、裏で泣け」
男はぶっきらぼうに言った。
「客が入りづらい」
ユヅキは目を瞬かせる。
慰められると思っていたわけじゃない。
でも、想像以上に優しくない。
「……すみません」
慌てて涙を拭う。
男は小さくため息をついた。
「寒いだろ。入れ」
「え?」
「その顔で外立ってる方が怖い」
半分追い立てられるみたいに店へ入る。
途端に、甘い匂いがユヅキを包んだ。
バター。
シナモン。
焼きたてのパン。
暖房の熱で、凍えていた指先がじわっと痛む。
「座って」
男はカウンター席を指した。
ユヅキはおずおず腰を下ろす。
しばらくして、白い皿が目の前に置かれた。
小さなシナモンロール。
まだ温かい。
「……あの、お金」
「余り物」
男はそれだけ言って、厨房へ戻ろうとする。
「ありがとうございます」
ユヅキが小さく言うと、男は振り返りもしないまま答えた。
「別に」
窓の外では、灰色の雪が静かに降り始めていた。
ユヅキは湯気の立つシナモンロールを見つめながら、ゆっくり息を吐く。
その甘い香りだけが、少しだけ、この街で呼吸をしてもいいと言ってくれている気がした。




