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異国のカフェで、壊れかけた私を拾ったのは無愛想な菓子職人でした  作者: 深町 灯


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44話 名前を呼ぶ声

 土曜日の朝。


 珍しく、青空が広がっていた。


 窓を開けると、少し冷たい風がカーテンを揺らす。


 昨日までの雨が嘘みたいだった。


「ママ、今日晴れてる!」


 娘が嬉しそうにリビングへ走ってくる。


 まだパジャマ姿のまま、髪も半分寝癖がついていた。


「ほんとだね」


「公園行きたい」


「宿題終わったらね」


「えぇー」


 不満そうな顔に、ユヅキは笑う。


 こういう何気ないやり取りが、最近少し愛おしかった。


 朝食を済ませ、洗濯機を回しながらコーヒーを淹れる。


 穏やかな朝。


 本当なら、それだけで十分なはずだった。


 なのに、スマホが気になる。


 昨日から、何度も。


 自分でも呆れるくらい。


 テーブルへ伏せて置いていたスマホが、小さく震えた。


 ユヅキの視線が反射的に向く。


『今日、時間ある?』


 颯真だった。


 その瞬間、胸がまた少しだけ騒ぐ。


 返事を打とうとして、止まる。


 なんて返せば自然なんだろう。


 考えている時点で、もう自然じゃない。


「ママ?」


「え?」


「またぼーっとしてる」


「してないよ」


「してる」


 娘はジュースを飲みながら、じーっとユヅキを見る。


 その視線から逃げるように、ユヅキはスマホを持ってキッチンへ移動した。


『午後なら少し』


 送信して、すぐ後悔する。


 少しって何。


 もっと他に言い方あった気がする。


 数秒後。


『じゃあ迎え行く』


 短い返信。


 それだけなのに、鼓動が変に速い。


 ユヅキは冷蔵庫にもたれ、小さく息を吐いた。


 ——落ち着け、私。


 ただ会うだけ。


 ただ話すだけ。


 なのに、こんなに意識してしまう自分がいる。


 午後一時。


 待ち合わせの時間より少し早く外へ出る。


 春と夏の間みたいな風が吹いていた。


 空気は明るいのに、胸の奥だけ落ち着かない。


 遠くから、車がゆっくり近づいてくる。


 黒い車が目の前で止まった。


 運転席の窓が下がる。


「乗る?」


 颯真だった。


 ユヅキは小さく頷き、助手席へ乗り込む。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 車内には、柔らかなコーヒーの香りが漂っていた。


 静かな音楽。


 低いエンジン音。


 その全部が妙に落ち着く。


「どこ行くの?」


「まだ秘密」


「なにそれ」


「嫌なら降りる?」


「今さら?」


 そう返すと、颯真が笑った。


 その横顔を見た瞬間、不意に思う。


 この人といると、自分が少しだけ自然でいられる。


 頑張りすぎなくていい気がする。


 赤信号で車が止まる。


 ふと、颯真がこちらを見た。


「ユヅキ」


 名前を呼ばれる。


 ただそれだけで、胸の奥が静かに揺れた。


「……なに?」


「いや」


 颯真は少しだけ笑う。


「呼びたくなっただけ」


 窓の外では、春の光が静かに揺れていた。

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