41話 雨音とエスプレッソ
朝から、細かな雨が降っていた。
窓ガラスを流れる雫を見つめながら、ユヅキはマグカップを両手で包む。六月とは思えないほど空気は冷たく、灰色の空が静かに街を覆っていた。
キッチンの時計は、まだ六時半。
娘を起こすまで、あと三十分だけある。
その短い静寂が、ユヅキは少し好きだった。
エスプレッソマシンの低い音が響く。
細く落ちるコーヒーの香りが、眠ったままの部屋をゆっくり満たしていく。
「……今日も雨か」
小さく呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
最近、疲れが抜けない。
朝起きても身体が重く、指のこわばりも強い。
それでも娘の前では、なるべく普通にしていたかった。
学校へ送り出して、仕事へ行って、帰宅して、夕飯を作る。
その繰り返しだけで、一日が終わる。
でも時々、ふと怖くなることがある。
——私は、ちゃんと前に進めているんだろうか。
日本で看護師として働いていた頃。
毎日泣きそうになりながら職場へ向かって、それでも必死に覚えて、怒られて、失敗して、また翌日も出勤していた。
あの頃の自分は、弱かった。
でも今思えば、ちゃんと戦っていたのかもしれない。
カタン。
不意にスマホが震えた。
画面には、颯真の名前。
ユヅキの指が、わずかに止まる。
『今日、そっちの近く行く』
短い一文。
それだけなのに、胸の奥が少しだけ騒いだ。
以前の自分なら、こんなことで動揺しなかった気がする。
けれど最近、颯真の気配が近づくたび、自分の感情がわからなくなる。
優しいから?
気を遣わないで話せるから?
それとも——。
「ママー……」
眠そうな娘の声が、廊下から聞こえた。
ユヅキは慌ててスマホを伏せる。
「おはよう」
「今日、雨?」
「うん。結構降ってる」
「最悪ぅ……」
寝癖のついた娘に思わず笑う。
こういう時間だけは、ちゃんと幸せだと思えた。
朝食を並べながら、ユヅキは窓の外を見た。
雨の街は静かで、どこか遠かった。
日本にいた頃、こんなふうに立ち止まって空を見る余裕なんてなかった気がする。
いつも時間に追われて、失敗しないことばかり考えていた。
「ママ?」
「ん?」
「今日なんかぼーっとしてる」
「え、そう?」
「してる」
娘はジャムを塗ったパンを頬張りながら、じっとユヅキを見る。
「疲れてる?」
その言葉に、ユヅキは少しだけ息を止めた。
子どもは時々、怖いほどよく見ている。
「大丈夫だよ」
笑って答える。
けれど娘は納得していない顔だった。
「無理しないでね」
その一言が、不意に胸へ刺さる。
——無理してない大人なんて、いるのかな。
そう思いながらも、ユヅキは「ありがとう」とだけ返した。
朝八時。
娘を学校へ送り出したあと、ユヅキは傘を開いた。
細かな雨が頬に触れる。
その瞬間、またスマホが震えた。
『コーヒー飲む?』
颯真からだった。
思わず、小さく笑ってしまう。
雨の日に誘われるコーヒーは、少しだけずるい。
ユヅキは傘を持ち直しながら、ゆっくり返信を打った。
『一時間だけなら』




