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異国のカフェで、壊れかけた私を拾ったのは無愛想な菓子職人でした  作者: 深町 灯


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40/50

40話 「帰国便」

 七月の終わりだった。


 朝から蒸し暑くて、ドイツにしては珍しく空気が重い。


 私はリビングのテーブルにノートパソコンを開いたまま、しばらく動けずにいた。


 画面には、日本行きの航空券予約ページ。


 出発日を選ぶカーソルが、点滅している。


 


「ママ、まだ決めてないの?」


 娘が隣から覗き込む。


「……うん」


「早くしないと高くなるよ」


 子どものくせに妙に現実的だ。


 私は苦笑した。


「そうなんだけどね」


 


 本当は。


 日付を決めたくなかった。


 帰国日を決めることは、この生活の“終わり”を認めるみたいだったから。


 


 午後から店だった。


 外へ出ると、空気がじっとり肌に張りつく。


 ライン川沿いには観光客が増えていて、夏休みの匂いがした。


 トラムの窓から街を眺めながら、私はぼんやり考える。


 日本へ帰ったら。


 この景色を、私は恋しく思うんだろうか。


 


「おはよう」


 店へ入ると、颯真さんがエスプレッソを淹れていた。


「おはようございます」


「なんか元気ないな」


 私は鞄を置きながら笑う。


「顔に出ます?」


「かなり」


 最近、このやり取りばかりしている気がする。


 


「航空券見てたんです」


 エプロンを結びながら、私はぽつりと言った。


「あー」


「帰国便」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し冷える。


 


 颯真さんは何も言わなかった。


 ただ、カップを二つ並べてカフェラテを作り始める。


 ミルクの泡立つ音だけが静かに響く。


「はい」


 差し出されたカップを受け取る。


「ありがとうございます」


「決められない?」


 私は苦笑した。


「自分でもびっくりするくらい」


 


 開店前の店内は静かだった。


 朝の光が窓から差し込んで、木のテーブルを柔らかく照らしている。


「帰りたくないわけじゃないんです」


 私はカップを両手で包みながら言った。


「でも、ここにいる自分を失くしたくなくて」


 それが一番近い本音だった。


 


 颯真さんは少しだけ目を伏せる。


「ゆづきさん、最初来た時と全然違う」


 私は顔を上げた。


「最初、ずっと緊張してた」


「……そんなでした?」


「今にも倒れそうだった」


 思わず笑ってしまう。


 でも多分、本当にそうだった。


 


「今はちゃんと笑う」


 その言葉に、胸が静かに熱くなる。


 ここへ来てから。


 私は少しずつ、“誰かの期待通りの自分”じゃなくなっていた。


 


 その時、入口のベルが鳴る。


 開店時間だった。


 私は慌てて立ち上がる。


「いらっしゃいませ」


 店の中に、焼きたてパンの匂いが広がる。


 


 忙しい時間が過ぎ、気づけば夕方になっていた。


 外はまだ明るい。


 閉店後、私は売れ残ったレモンケーキを箱に詰めていた。


「持って帰る?」


 颯真さんが聞く。


「娘が好きなので」


「じゃあちょうどいい」


 彼は少し笑う。


 


 私は箱を抱えながら、ふと聞いた。


「颯真さんは、日本帰りたいって思う時ありますか?」


 一瞬だけ、彼の動きが止まる。


 でもすぐに、小さく笑った。


「あるよ」


「でも?」


「帰ったら戻れない気がする時もある」


 その言葉が胸に残る。


 


 店を出る頃には、空が薄いオレンジ色になっていた。


 夏の夕暮れ。


 風が少しだけ涼しい。


 私はレモンケーキの箱を抱えながら歩き出す。


 帰国便を予約すれば、多分全部動き出してしまう。


 日本。


 現実。


 元の生活。


 でも。


 この街で過ごした時間は、もう確実に私の一部になっていた。

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