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異国のカフェで、壊れかけた私を拾ったのは無愛想な菓子職人でした  作者: 深町 灯


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39話 「知らないふり」

 その日の帰り道、私はずっと黙っていた。


 トラムの窓に映る夜景が、ゆっくり後ろへ流れていく。


『無理して戻らなくてもいいんじゃない?』


 颯真さんの言葉が、頭から離れない。


 あんなこと、簡単に言ってはいけない。


 でも。


 誰よりも言ってほしかった言葉だった。


 


 家へ着くと、リビングの灯りがついていた。


 夫が珍しく早く帰ってきている。


「おかえり」


「……ただいま」


 私は靴を脱ぎながら小さく息を吐いた。


 娘はソファで寝落ちしている。


 テレビだけが静かに光っていた。


「起こさなかったんですか?」


「疲れてたみたいだから」


 夫はノートパソコンを閉じながら答える。


 その横顔を見て、少しだけ罪悪感が胸を刺した。


 夫は何も悪いことをしていない。


 家族のために働いている。


 ちゃんと責任を果たしている。


 なのに私は今、別の人の言葉に心を揺らしている。


 


「日本帰国の日程、そろそろ決める?」


 夫が聞く。


 私は鞄を置きながら曖昧に頷いた。


「うん……」


「お前の実家、長めに帰る?」


 その言葉に少し驚く。


「いいの?」


「たまにはゆっくりしたら」


 私は返事に困った。


 優しい。


 多分、夫なりに気を遣っている。


 でも、その優しさが時々遠い。


 必要な言葉はくれるのに、“心”には触れない感じがする。


 


 夜。


 娘をベッドへ運んだあと、私は一人でキッチンに立っていた。


 窓の外は静かな夏の夜。


 ドイツの夜風は、日本より少し乾いている。


 私は冷蔵庫から炭酸水を取り出した。


 グラスの中で泡が静かに弾ける。


 


 スマホが震える。


 思わず心臓が跳ねた。


 颯真さんだった。


『今日は暑かったな』


 たったそれだけ。


 でも私は、その短いメッセージをしばらく見つめてしまう。


 


『ですね』


 返信を打って、消す。


 また打って、消す。


 結局、


『レモンケーキ全部売れましたね』


 とだけ送った。


 まるで知らないふりをするみたいに。


 自分の気持ちから目を逸らすみたいに。


 


 少しして返信が来る。


『また作るか』


 私は思わず笑ってしまった。


 その瞬間、自分がどれだけ救われているのかわかってしまう。


 苦しかった。


 こんな風に誰かの言葉を待つ自分が。


 


 スマホを伏せて、私は両手で顔を覆った。


 好きになってはいけない。


 ちゃんとわかっている。


 これはきっと、一時的な逃避だ。


 異国で。


 疲れていて。


 少し優しくされたから、心が寄りかかっているだけ。


 そう思いたかった。


 


 でも。


 “誰かといる時の自分を好きになれる”ことが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。


 


 窓の外では、遠くをトラムが走っていく。


 私は静かなキッチンで一人、炭酸の抜けたグラスを見つめていた。


 知らないふりをしていても。


 心だけは、もう戻れなくなり始めている気がした。

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