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異国のカフェで、壊れかけた私を拾ったのは無愛想な菓子職人でした  作者: 深町 灯


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38話 「夏の匂い」

 七月に入った途端、街の空気が少し変わった。


 カフェのテラス席には人が増え、ライン川沿いには観光客が溢れている。


 ドイツの夏は短い。


 だからみんな、晴れた日を逃さない。


 


 その日も朝から珍しくよく晴れていた。


 私は店の前に並べる黒板を書き換えながら、眩しさに目を細める。


『本日のおすすめ レモンケーキ』


 チョークの粉が指先についた。


「字、綺麗だな」


 後ろから声がする。


 振り返ると、颯真さんがコーヒー片手に立っていた。


「普通ですよ」


「いや、なんか性格出る」


「どういう意味ですか?」


「ちゃんとしてる」


 私は思わず苦笑した。


 最近、その言葉に少し敏感になっている。


 


 開店後、店は想像以上に忙しかった。


 テラス席が埋まり、アイスコーヒーの注文が続く。


 ドイツ人の老夫婦。


 ベビーカーを押した若い母親。


 観光客のカップル。


 いろんな言葉が店内を行き交っていた。


 


「ゆづきさん、水飲んだ?」


 レジを打ちながら、颯真さんが聞く。


「まだです」


「倒れる前に飲んで」


 その言い方が、少しだけ看護師時代の先輩みたいで笑ってしまう。


「なんですか」


「顔赤い」


 私は慌てて冷蔵庫から炭酸水を取り出した。


 


 昼過ぎ、ようやく客足が落ち着く。


 私は裏口から外へ出て、小さく息を吐いた。


 夏の匂いがする。


 少し乾いた風。


 遠くで鳴るトラムの音。


 誰かの笑い声。


 


「逃げてる」


 後ろから颯真さんが笑う。


「ちょっと休憩です」


 私は壁にもたれた。


「今日すごいですね」


「夏はこんな感じ」


 彼は隣で缶コーヒーを開ける。


 


 しばらく二人で黙って空を見ていた。


 青空が、驚くほど高い。


「日本、暑いんだろうな」


 颯真さんが呟く。


「多分もう蒸し暑いです」


「帰るの憂鬱?」


 私は少し笑う。


「……ちょっと」


 本当は、“ちょっと”じゃない。


 日本へ帰る日が近づくほど、胸の奥がざわついていた。


 


「帰ったら、また忙しくなるんだろうなって」


 私はゆっくり続ける。


「今みたいな時間、多分なくなるから」


 パンの匂い。


 朝焼け。


 静かな帰り道。


 何気ない会話。


 全部、夢みたいに消えてしまいそうだった。


 


 その時、強い風が吹いた。


 私の髪が乱れて、思わず押さえる。


 颯真さんが小さく笑った。


「髪伸びた?」


「え?」


「なんとなく」


 そんなこと、夫にも言われたことがなかった。


 胸が少しだけ苦しくなる。


 


「ゆづきさん」


 低い声で名前を呼ばれる。


 私は顔を上げた。


 夏の日差しの中で見る彼の横顔は、少し眩しかった。


「無理して戻らなくてもいいんじゃない?」


 静かな声だった。


 優しいのに、危ない言葉。


 私はすぐに返事ができなかった。


 


 戻る場所は、本当に一つなんだろうか。


 家族がいる場所。


 生まれ育った国。


 それとも。


 自分が少しだけ好きになれる場所。


 


 店の中からベルの音が聞こえる。


 新しい客が来たらしい。


「行きますか」


 私が立ち上がると、颯真さんも頷いた。


 店へ戻る扉を開けた瞬間、焼きたてのパンの甘い匂いが広がる。


 私はその香りを吸い込みながら、胸の奥に芽生え始めた感情に、まだ名前をつけられずにいた。

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