37話 「名前のない関係」
金曜日の夜だった。
閉店後の店内には、食器を片付ける音だけが静かに響いている。
外はまだ少し明るい。
ドイツの夏の夕方は、日本よりずっと長い。
「今日、疲れてる?」
颯真さんが洗ったグラスを拭きながら聞いた。
「そんな顔してます?」
「してる」
最近、この人には隠せない。
私は苦笑しながらエプロンを外した。
「今日、日本の友達から連絡きて」
「うん」
「“帰国したらまたランチしようね”って」
それだけのメッセージなのに、妙に苦しくなった。
日本へ帰れば、私はまた“元の場所”へ戻ることになる。
ママ友の会話。
空気を読む感じ。
ちゃんとしてる人たちの輪。
そこに戻る未来を想像すると、胸が少し重くなる。
「帰りたくない?」
私は答えに迷った。
帰りたい気持ちはある。
家族もいる。
友達もいる。
日本食も恋しい。
でも。
「……今の生活、嫌いじゃなくて」
ぽつりと零す。
「ここだと、ちゃんとしてなくても怒られない気がするんです」
颯真さんは小さく笑った。
「ドイツだしな」
「それもあるかもです」
私はカウンターに肘をつきながら、ぼんやり窓の外を見た。
雨上がりの石畳が街灯を反射している。
「日本にいた頃、ずっと誰かに評価されてる感じがしてました」
看護師として。
母親として。
妻として。
失敗しないように。
迷惑をかけないように。
嫌われないように。
「でもこっち来て、ちょっと壊れたんですよね」
私は苦笑する。
「頑張れなくなっちゃって」
しばらく沈黙が落ちた。
コーヒーマシンの余熱音だけが小さく響く。
「壊れたっていうか」
颯真さんが静かに言った。
「今まで無理してただけじゃない?」
私は顔を上げる。
その言葉は、不思議なくらい自然に胸へ入ってきた。
「ゆづきさんって、“ちゃんとしなきゃ”が強すぎる気がする」
名前を呼ばれて、心臓が少しだけ跳ねる。
最近、この人が自分の名前を呼ぶたびに落ち着かなくなる。
「そういう人、急に力抜くと、自分わかんなくなるんだよ」
私は何も言えなかった。
図星だったから。
店の照明が、温かく床を照らしている。
私はその光をぼんやり見つめた。
「……私」
ゆっくり息を吐く。
「ここにいる時、自分が嫌いじゃないんです」
それは多分、初めて口にした本音だった。
颯真さんは少しだけ目を細める。
「じゃあ、それ大事にした方がいい」
静かな声。
優しいのに、押しつけがましくない。
帰り道。
私たちはいつものように並んで歩いていた。
会話は少ない。
でも不思議と沈黙が苦しくない。
駅前まで来た時、颯真さんがふと立ち止まる。
「来週、日本帰国の予定決めるの?」
「……多分」
「そっか」
それだけ。
それだけなのに、胸の奥が少し痛かった。
電車がホームに入ってくる。
私は乗り込む前に振り返った。
夏の夜風の中で、颯真さんが小さく手を上げる。
その姿を見た瞬間、私は気づいてしまった。
この場所を失うのが怖いんじゃない。
この人と過ごす時間が終わるのが、怖いのだと。




