36話 「戻れない場所」
その夜、私はなかなか眠れなかった。
窓の外はまだ薄明るい。
ドイツの夏は夜が長い。
ベッドの横では、娘が静かな寝息を立てている。
私はスマホを開いたまま、ぼんやり天井を見つめていた。
颯真さんとのメッセージ画面。
『それでいいんじゃない?』
昼間の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
“それでいい”。
日本にいた頃、そんな風に言われた記憶がほとんどなかった。
もっと頑張れ。
ちゃんとしなさい。
迷惑をかけないように。
期待に応えられるように。
気づけば私は、ずっと“減点されない自分”を作ることばかり考えていた。
翌朝、珍しく頭が重かった。
低気圧のせいかもしれない。
私はキッチンでぼんやりコーヒーを淹れる。
「ママ元気ない?」
娘がパンをかじりながら聞いた。
「ちょっと眠いだけ」
「最近、夜起きてるよね」
図星だった。
私は苦笑する。
「見てたの?」
「トイレ行った時」
子どもは本当によく見ている。
店へ向かう途中、小雨が降り始めた。
石畳が濡れて、街が少しだけ静かになる。
私はこの時間が好きだった。
誰にも急かされない朝。
日本にいた頃は、朝は戦場みたいだったのに。
「おはよう」
裏口を開けると、颯真さんがいた。
「おはようございます」
「顔色悪いな」
「そんなですか?」
「そんな」
彼は少し眉を寄せる。
「座って。コーヒー淹れるから」
私は反射的に、
「大丈夫です」
と言いかけて、やめた。
最近少しだけ、人に頼ることが怖くなくなっている。
カウンター席で温かいカフェラテを受け取る。
ミルクの泡が少し揺れていた。
「ありがとうございます」
「無理してる時の顔してる」
私はカップを持つ手を止める。
「……そんなわかりやすいですか」
「わかるよ」
静かな声だった。
しばらく沈黙が落ちる。
外では雨が強くなっていた。
「日本帰るの、不安?」
私はゆっくり息を吐く。
「……多分」
「戻ったら、また前みたいになる気がして」
病棟にいた頃の自分。
常に緊張して、失敗しないようにして、怒られないようにして。
毎日、自分を削っていた。
「こっちのゆづきさんの方が自然だけどな」
不意にそう言われて、私は顔を上げた。
颯真さんは冗談みたいに笑っている。
「今の方がちゃんと笑うし」
胸の奥が、小さく揺れる。
その時、スマホが震えた。
夫からだった。
『来週、会食増えるから夕飯いらない日ある』
私は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
責めたいわけじゃない。
夫は多分、ちゃんと仕事をしている。
家族のために。
でも最近、同じ家にいるのに遠い。
「大丈夫?」
颯真さんの声で我に返る。
私は慌ててスマホを伏せた。
「……大丈夫です」
また嘘をつく。
でも本当のことを言ったら、多分泣いてしまう気がした。
開店時間が近づき、店の照明が明るくなる。
焼きたてのパンの匂いが広がる。
私はエプロンの紐を結び直した。
ここにいる時だけ、自分が空っぽじゃなくなる。
そんなこと、絶対誰にも言えないと思った。




