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異国のカフェで、壊れかけた私を拾ったのは無愛想な菓子職人でした  作者: 深町 灯


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35話 「名前を呼ばれる場所」

 午後三時を過ぎた頃、店はようやく落ち着き始めた。


 焼きたてだったクロワッサンはほとんど売り切れて、ショーケースにはシナモンロールが数個残っているだけだった。


 私はトングを片付けながら、小さく息を吐く。


 少し疲れていた。


 でも、この疲れは嫌いじゃない。


 


 入口のベルが鳴る。


「いらっしゃいませ」


 顔を上げた瞬間、私は少しだけ固まった。


 日本人の女性だった。


 年齢は四十前後くらい。


 上品なワンピースに、綺麗に巻かれた髪。


 どこかで見たことがある気がした。


「あれ?」


 女性が目を丸くする。


「ゆづきさん?」


 胸が小さくざわつく。


 日本人学校の保護者会で、一度だけ会った人だった。


「こんにちは」


「えー、偶然! ここで働いてるんですね」


 悪気のない笑顔。


 でも私は少しだけ背筋が伸びる。


 こういう時、無意識に“ちゃんとした自分”を演じてしまう。


「少しだけ、お手伝いしてて」


「すごい。ドイツ生活楽しんでる感じですね」


 楽しんでる。


 その言葉に、私は一瞬だけ返事に迷った。


 楽しいだけじゃない。


 寂しいし、不安だし、時々すごく苦しい。


 でも。


 ここにいる時だけは、少し呼吸が楽だった。


 


「おすすめあります?」


 私はシナモンロールを勧めた。


 女性は嬉しそうに笑って、二つ注文する。


「今度ランチでもしましょうよ」


 会計のあと、そう言われる。


「みんな最近ゆづきさん見ないねって話してたんです」


 “みんな”。


 その言葉が、少し苦手だった。


 誰かの夫の役職。


 子どもの進学。


 どこの補習校がいいか。


 どのブランドが日本より安いか。


 そういう会話の中にいると、自分がだんだん薄くなっていく気がする。


「また連絡します」


 私は曖昧に笑った。


 


 女性が帰ったあと、私はしばらく無言でカップを拭いていた。


「知り合い?」


 颯真さんがコーヒーマシンを洗いながら聞く。


「少しだけ」


「なんか疲れた顔してる」


 私は苦笑した。


「そんな顔に出てました?」


「結構」


 彼はさらっと言う。


 


 私は窓の外を見た。


 六月の夕方はまだ明るい。


 石畳が淡く光っている。


「私、多分」


 気づけば、ぽつりと呟いていた。


「ちゃんとした駐在妻、向いてないんですよね」


 颯真さんは何も言わない。


 ただ続きを待つみたいに、静かにコーヒーを飲んでいる。


「もっと社交的で、綺麗で、ちゃんとしてる人たくさんいるから」


 私は小さく笑う。


「私は、そういう場所いると息苦しくなる時があって」


 店の中にはパンの甘い匂いが残っていた。


 オーブンの熱。


 コーヒーの香り。


 ここでは、“誰かの妻”じゃなくていい気がする。


 


「ここにいる時の方が自然なんです」


 私はゆっくり言った。


「パン並べて、お客さんと話してる時の方が、自分でいられる感じがして」


 颯真さんは少しだけ笑った。


「それでいいんじゃない?」


 その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。


 


 閉店後。


 店の灯りを半分落としたあと、私は窓ガラスに映る自分を見つめた。


 ドイツに来る前より、少しだけ柔らかい顔をしている気がする。


 外では、夏の遅い夕暮れが街を包み始めていた。


 私はその景色を見ながら、ふと思う。


 誰かに期待される自分じゃなく。


 ただ名前を呼ばれるだけで嬉しい場所が、この世界にはあるのかもしれないと。

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