34話 「置いていかれる季節」
六月の終わりが近づいていた。
ドイツの夏は、日本みたいにまとわりつく暑さはない。
朝は肌寒くて、昼だけ少し日差しが強くなる。
私は最近、その曖昧な季節が好きだった。
夏なのに、どこか秋の入口みたいな空気。
店へ向かう途中、駅前の花屋に紫陽花が並んでいた。
日本で見るより色が薄い。
くすんだ青や、白に近い紫。
私は足を止めてしばらく眺める。
日本では、六月が嫌いだった。
湿気。
低気圧。
頭痛。
終わらない疲労感。
でもドイツに来てから、“六月”が少し違って見える。
「それ好きなの?」
声がして振り返る。
颯真さんだった。
「え、なんでここに」
「パン屋行く途中」
彼は紙コップのコーヒーを片手に立っていた。
ラフな私服姿を見るのは、少し久しぶりな気がする。
「紫陽花、日本っぽいなって思って」
私が言うと、
「確かに」
と彼は花を見る。
「でもドイツの色って感じする」
「どういう意味ですか?」
「ちょっと薄くて、静か」
私は思わず笑った。
「それ褒めてます?」
「多分」
二人で並んで歩き出す。
朝の街はまだ静かだった。
パン屋の開店前独特の匂いが、通りに少しだけ漂っている。
「来月、日本帰るんだっけ」
私は頷く。
「少しだけ」
「どれくらい?」
「まだ決めてないです」
本当は、決めたくなかった。
帰国日を具体的にすると、この生活に“終わり”ができてしまう気がして。
「日本帰ったら忙しそう」
颯真さんが言う。
「……多分」
「また看護師戻るの?」
その質問に、私は少し黙った。
看護師。
その言葉を聞くだけで、胸が重くなる日がある。
「まだ、わからないです」
私は小さく答える。
「戻りたい気持ちもあるし、怖い気持ちもある」
病棟の匂い。
ナースコール。
張り詰めた空気。
患者さんの声。
全部、まだ身体が覚えている。
「怖いなら、無理しなくていいんじゃない?」
颯真さんはさらっと言った。
私は苦笑する。
「みんな、そんな簡単に言ってくれないです」
「まあ日本だと特に」
彼はコーヒーを飲みながら続けた。
「“せっかく資格あるのに”ってやつ?」
私は驚いて顔を上げる。
「……そうです」
何度も言われた言葉だった。
せっかく看護師になったのに。
せっかくここまで頑張ったのに。
辞めるなんてもったいない。
正論だった。
でも正論だけで、人は生きられない。
店へ着く頃には、少しだけ日差しが出ていた。
石畳が淡く光っている。
私は扉の前で立ち止まる。
「私、最近」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「ドイツ来てからの自分の方が好きかもしれないです」
颯真さんは何も言わなかった。
でもその沈黙が、否定じゃないことはわかった。
店の中へ入る。
焼きたてのパンの匂い。
オーブンの熱。
いつもの朝。
でも私は少しだけ怖くなっていた。
もし日本へ帰ったら。
この場所を思い出してしまう。
“息ができた自分”を知ってしまったあとで、前と同じように生きられるんだろうか。




