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異国のカフェで、壊れかけた私を拾ったのは無愛想な菓子職人でした  作者: 深町 灯


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33話 「六月のチケット」

 帰宅したあとも、私は夫からのメッセージを何度も見返していた。


『来月、一時帰国どうする?』


 たったそれだけ。


 なのに、胸の奥が落ち着かない。


 


 娘はソファで動画を見ながら、ポテトチップスを食べている。


「ママ、日本帰るの?」


 私は少しだけ言葉に詰まった。


「まだ決めてないよ」


「ふーん」


 娘は画面から目を離さないまま答える。


「でも、日本のおばあちゃんには会いたい」


「……そっか」


 私はキッチンへ逃げるように立った。


 冷蔵庫を開けても、何を取りに来たのかわからない。


 最近こういうことが増えた。


 頭の中が、いつも少し散らかっている。


 


 その夜、夫は珍しく早く帰宅した。


 スーツ姿のまま、ネクタイを緩めてダイニングに座る。


「航空券、早めに取った方が安いらしい」


 私は曖昧に頷く。


「……うん」


「お前はいつまでいる予定?」


 “お前”。


 昔は気にならなかった呼び方が、最近少しだけ刺さる。


「まだわからない」


「学校あるし、そんな長くはいられないだろ」


 正しい。


 全部正しい。


 でも、その“正しさ”だけで会話が終わるのが時々苦しい。


 


「ゆづき?」


 名前を呼ばれて顔を上げる。


 夫が少し不思議そうにこちらを見ていた。


「最近ぼーっとしてない?」


「そう?」


「疲れてるなら、日本帰った時ゆっくりしたら」


 その言葉は優しいはずなのに、なぜか涙が出そうになった。


 私は慌てて視線を落とす。


「大丈夫」


 また、嘘をつく。


 


 翌朝。


 私は少し早めに家を出た。


 曇り空。


 湿った空気。


 トラムの窓に映る自分は、妙に大人びて見える。


 もう十分大人なのに。


 


 店へ着くと、颯真さんが一人で仕込みをしていた。


「おはよう」


「おはようございます」


 エプロンをつけながら、私は昨日のことを思い出す。


 ライン川。


 焼きアーモンド。


 風の匂い。


 あれは、ただの帰り道だったはずなのに。


 


「眠そう」


 颯真さんが笑う。


「昨日ちょっと」


「考え事?」


 私は苦笑した。


「顔に出ます?」


「結構」


 そんなにわかりやすいんだ、と少し恥ずかしくなる。


 


 オーブンの前に並んで、生地を並べる。


 店内にはまだ誰もいない。


 静かな朝だった。


「日本帰るの?」


 不意に聞かれて、私は手を止めた。


「……たぶん、一時的には」


「そっか」


 颯真さんはそれ以上何も言わなかった。


 でも、その短い返事が妙に寂しく聞こえる。


 


 沈黙を埋めるように、私は小さく笑った。


「帰ったら、多分また忙しいんだろうなって」


「日本ってそういう感じだよな」


「ちゃんとしてないと駄目、みたいな空気があるから」


 私はパンを並べながら続ける。


「こっちだと、少しくらい適当でも許される気がして」


「わかる」


 彼はコーヒーを飲みながら頷いた。


「ドイツって、“他人にそこまで興味ない”感じあるし」


 私は思わず笑ってしまう。


「それです」


 その瞬間、店の外に朝日が差し込んだ。


 曇り空の隙間から、細い光が床を照らしている。


 私はその光を見つめながら、ふと思う。


 もし。


 もし日本へ帰ったあと。


 私はこの朝を、思い出すんだろうか。


 焼きたてのパンの匂いと。


 静かな店内と。


 “ちゃんとしなくても呼吸できた時間”のことを。

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