32話 「遠回りの帰り道」
昼過ぎ、店は珍しく静かだった。
雨が降りそうな曇り空のせいか、客足も少ない。
私は焼き上がったばかりのパンを棚に並べながら、小さく息を吐いた。
オーブンの熱で頬が少し熱い。
でも外は寒い。
ドイツの夏は、時々季節を忘れる。
「今日、帰り急ぐ?」
レジ横で伝票を見ていた颯真さんが聞いた。
「え?」
「いや、駅まで遠回りしようかなと思って」
私は少し戸惑う。
断る理由もない。
でも、簡単に頷いてはいけない気もする。
「……大丈夫です」
結局、そう答えてしまった。
颯真さんは小さく笑う。
「じゃあ決まり」
その笑い方がずるい、と最近思う。
押しつけがましくないのに、自然に距離を縮めてくる。
閉店後、私たちは川沿いの道を歩いた。
ライン川の水面は曇り空を映して、鈍い銀色をしている。
風が強かった。
私は髪を押さえながら空を見上げる。
「この辺、夜好きなんだよな」
颯真さんが言う。
遠くに観覧車の灯りが見えた。
観光客の笑い声。
トラムの走る音。
異国なのに、最近少しだけ“日常”になってきている。
「最初、ドイツ嫌いでした」
気づけば私は話していた。
「へえ」
「全部冷たく見えて」
スーパーも。
駅も。
言葉も。
人との距離感も。
日本みたいに“察してくれる”空気がなくて、ずっと緊張していた。
「今は?」
私は少し考える。
「……まだ苦手です。でも」
「でも?」
「息はしやすいです」
颯真さんは何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った気がした。
橋の上まで来た時、急に風が強くなる。
私は思わず身を縮めた。
「寒っ」
「だから言ったのに」
颯真さんが呆れたように笑う。
「日本人って、なんでそんな薄着なんだろうな」
「おしゃれ優先なんです」
「無理してるだけだろ」
私は吹き出した。
こんな風に笑ったの、いつぶりだろう。
気を遣わずに。
“ちゃんとした自分”を演じずに。
橋を渡ったところで、小さな屋台が見えた。
焼きアーモンドの甘い匂いが漂ってくる。
「食べる?」
「え、いいです」
「まあ一回食べてみ」
半分強引に買われた紙袋を受け取る。
熱い。
砂糖とシナモンの匂い。
一口かじると、甘さがじわっと広がった。
「……美味しい」
「だろ」
子どもみたいに得意そうな顔をするから、また笑ってしまう。
その瞬間だった。
スマホが震える。
画面に表示された名前を見て、私は一瞬だけ現実に引き戻された。
夫からだった。
『来月、一時帰国どうする?』
私は立ち止まる。
日本。
帰る場所。
戻る場所。
でも最近、その言葉を考えるだけで胸がざわつく。
「どうした?」
颯真さんが不思議そうにこちらを見る。
私は慌ててスマホを伏せた。
「……なんでもないです」
嘘だった。
本当は、自分でもわからなくなっていた。
帰りたいのか。
帰りたくないのか。
この静かなドイツの夜を、失いたくないと思ってしまっている自分がいることを。




