31話 「朝焼けのホーム」
翌週の月曜日。
まだ空が薄暗いうちに、私は家を出た。
朝五時前の街は静かだ。
昼間は賑やかなトラムの駅も、人影がほとんどない。
私はマフラーに顔を埋めながら、ホームのベンチに座った。
吐く息が白い。
六月なのに、ドイツの朝は時々冬みたいだ。
スマホを見る。
日本では、もう昼前。
母からメッセージが来ていた。
『体調どう? 無理しないでね』
その短い文章に、少しだけ胸が詰まる。
私はすぐに返信できなかった。
元気だよ、と書けば嘘になる。
辛いよ、と書けば心配させる。
だから結局、
『ありがとう』
だけ送った。
トラムがホームに滑り込んでくる。
窓の向こうに映る自分の顔が、少し疲れて見えた。
私は最近、“どこにも完全には属していない感覚”をずっと抱えている。
日本へ帰れば、浦島太郎みたいになる気がする。
でもドイツでも、私はずっと“お客様”のままだ。
外国人で。
駐在妻で。
誰かの家族で。
自分自身としてここにいる感覚が、時々薄くなる。
店に着くと、まだ開店前だった。
裏口から入ると、オーブンの熱気がふわっと頬に当たる。
「おはよう」
低い声。
颯真さんがエプロン姿で立っていた。
「おはようございます」
私は少しだけ安心する。
最近、彼の声を聞くと肩の力が抜けるようになっていた。
「今日早いな」
「眠れなくて」
思わず本音が漏れる。
颯真さんは何も聞き返さなかった。
ただ、
「コーヒー飲む?」
とだけ言った。
店内にはまだ客がいない。
薄暗い照明の中、コーヒーマシンの音だけが静かに響く。
私は紙カップを両手で包み込んだ。
温かい。
「日本帰りたい?」
不意に聞かれて、私は少し考える。
「……帰りたい時もあります」
「時も?」
「でも、帰ったら帰ったで苦しくなる気もして」
自分で言いながら、少し驚いた。
こんな話、誰にもしたことがなかった。
「逃げ場所なくなる感じ?」
私は顔を上げる。
颯真さんはコーヒーを飲みながら窓の外を見ていた。
「……そうかもしれないです」
小さく答える。
日本にいた頃の私は、毎日必死だった。
看護師として失敗しないように。
母としてちゃんとしているように。
妻として迷惑をかけないように。
ずっと何かに追われていた。
でもドイツへ来て、初めて少し立ち止まった。
その瞬間、自分がどれだけ疲れていたのか気づいてしまった。
「無理して戻る必要ないんじゃない?」
颯真さんが静かに言う。
私は返事ができなかった。
“戻る”のが正しいと思っていたから。
元の自分に。
元の生活に。
でも、本当にそうなんだろうか。
外が少しずつ明るくなっていく。
灰色だった空の端に、薄いオレンジ色が混ざり始める。
「朝焼け」
私が呟くと、
「リューベルの朝って、たまに綺麗だよな」
颯真さんが笑った。
その横顔を見ながら、私はふと思う。
この人もきっと、何かから逃げるようにここへ来たのかもしれない。
理由は知らない。
聞くつもりもない。
でも。
少しだけ似ている気がした。
朝焼けの光が、静かな店内にゆっくり差し込んでくる。
私は温くなったコーヒーを飲みながら、その景色を黙って見つめていた。




