30話 「帰る場所」
土曜日の夕方、部屋には久しぶりに人の気配が満ちていた。
夫は日本から来た取引先の人たちと、リビングでワインを飲んでいる。
笑い声。
グラスの触れ合う音。
聞き慣れているはずなのに、どこか遠い世界みたいだった。
「ママ、お皿これでいい?」
娘が小声で聞く。
「うん、ありがとう」
私は無理やり笑顔を作った。
テーブルの上には、朝から仕込んだ料理が並んでいる。
ローストビーフ。
サラダ。
キッシュ。
日本にいた頃、こういう“ちゃんとした奥さん”みたいなことをするのが苦手だった。
でもいつの間にか、上手くなった。
上手くなってしまった。
「奥様、ドイツ生活どうですか?」
取引先の男性に話しかけられ、私は顔を上げる。
「慣れてきました」
「いいですねえ、ヨーロッパ」
私は曖昧に笑う。
本当は、慣れたわけじゃない。
ただ、“平気そうに見せる”のが上手くなっただけだ。
夫は向こうで楽しそうに話している。
会社の人たちといる時の夫は、驚くほど自然によく笑う。
私はその横顔を見るたび、少しだけ胸がざわつく。
家では見せない顔だった。
食事が終わった後、私は一人でキッチンに立っていた。
食器を洗う水の音だけが静かに響く。
急に疲れが押し寄せる。
「大丈夫?」
振り返ると、娘が立っていた。
「うん?」
「なんか疲れてる」
私は少し笑った。
「大人はね、疲れててもやることあるの」
「ふーん」
娘はしばらく黙っていたけれど、急に言った。
「ママ、パン屋さん行ってる時の方が楽しそう」
手が止まった。
胸の奥を、何かが静かに刺す。
「……そう見える?」
「うん」
子どもは残酷なくらい正直だ。
夜遅く、客が帰ったあと。
夫はネクタイを緩めながらソファに座った。
「今日はありがとう」
珍しく、そんな言葉が出る。
「別に」
私はテーブルを片付けながら答えた。
「みんな喜んでた」
「なら良かった」
それだけ。
本当に、それだけだった。
でも夫はしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「……最近、変わったよな」
私は動きを止める。
「え?」
「なんか前より、楽しそう」
胸がざわつく。
私は笑って誤魔化した。
「そうかな」
「ドイツ来てから、少し元気になった気がする」
その言葉に、なぜか苦しくなった。
元気になったんじゃない。
本当は、ようやく少しだけ“息ができる場所”を見つけただけだ。
深夜。
娘を寝かせたあと、私はベランダに出た。
雨上がりの空気が冷たい。
遠くでトラムの音がする。
スマホを見る。
颯真さんから、短いメッセージが届いていた。
『今日はお疲れ』
たったそれだけ。
なのに、張っていた糸が少しだけ緩む。
私はしばらく画面を見つめたあと、
『ありがとうございます』
と返した。
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が静かに熱くなる。
帰る場所って、なんだろう。
家族のいる家なのか。
生まれ育った国なのか。
それとも。
“自分らしく呼吸できる場所”のことを言うのか。
私は冷えた手を握りながら、ドイツの夜空を見上げた。




