29話 「嘘をつく理由」
翌朝、目が覚めた瞬間、私は首元の柔らかさに気づいた。
薄いグレーのマフラー。
昨夜、颯真さんに巻かれたまま、外すのを忘れていた。
私はしばらく天井を見つめたまま動けなかった。
心臓が静かに速い。
たったそれだけのことなのに。
高校生みたいだ、と自分で思う。
四十手前にもなって、こんなことで眠れなくなるなんて。
キッチンへ行くと、娘が眠そうな顔で椅子に座っていた。
「おはよう」
「……おはよ」
髪がぼさぼさだ。
私は思わず笑ってしまう。
「なに笑ってるの?」
「別に」
コーヒーを淹れながら、私は自然を装った。
でも娘はじっと私を見る。
「なんか今日、機嫌いいね」
ぎくりとした。
「そう?」
「うん」
子どもは時々、怖いくらいよく見ている。
私はごまかすように冷蔵庫を開けた。
「パン焼く?」
「食べるー」
その瞬間、スマホが震える。
画面には、夫の名前。
私は一瞬だけ動きを止めた。
『来週、日本から人来るから、土曜は家で食事な』
短いメッセージ。
いつも通りの、業務連絡みたいな文面だった。
『了解』
私はそれだけ返す。
娘は黙ってパンをかじっていた。
「パパ帰ってくるの?」
「今週は帰るって」
「ふーん」
興味があるのかないのかわからない返事。
でも私は、その“普通さ”に少し救われる。
もし娘がまだ小さかった頃なら、多分もっと無邪気に喜んでいた。
家族の形は、少しずつ変わっていく。
気づかないうちに。
昼過ぎ、私はマフラーを畳みながらため息をついた。
返さなきゃ。
それだけなのに、少しだけ寂しい。
こんなの、駄目だ。
私は既婚者で、母親で。
ちゃんと現実を生きなきゃいけない。
頭ではわかっている。
でも。
ドイツに来てから、私はずっと“妻”とか“母親”としてしか呼ばれていなかった気がする。
誰かに、一人の女性として見られることなんて、もうないと思っていた。
夕方、店へ行くと、颯真さんは奥でパン生地をこねていた。
白いシャツの袖が少しだけ捲られている。
私は目を逸らす。
「これ……昨日の」
マフラーを差し出すと、
「ああ」
彼は軽く笑った。
「暖かかった?」
「はい」
それだけの会話。
なのに妙に緊張する。
私は逃げるようにレジへ向かった。
しばらくして、店が落ち着いた頃。
颯真さんがコーヒーを二つ持ってきた。
「休憩」
「ありがとうございます」
紙コップから湯気が立つ。
外はまた雨だった。
「旦那さん、最近忙しいの?」
不意にそう聞かれて、私は少しだけ固まった。
「……まあ」
曖昧に笑う。
本当のことを言えば、多分止まらなくなる気がした。
寂しいとか。
苦しいとか。
どうしてこんなにお金の話ばかりになるんだろうとか。
どうして私は、いつも“我慢する側”なんだろうとか。
でも、そんなこと言えるわけがない。
「駐在って大変ですよね」
私は結局、当たり障りのない言葉を選んだ。
颯真さんは何も言わなかった。
ただ静かにコーヒーを飲んでいる。
その沈黙が、逆に優しかった。
「……私」
気づけば、言葉が漏れていた。
「最近、自分がどこにいるのかわからなくなる時があるんです」
彼はゆっくりこちらを見る。
「日本でもないし、ドイツでもないし」
窓を叩く雨音。
「ちゃんと生きてる感じが、時々しなくて」
言ってしまった後で、私は少し後悔した。
重かったかもしれない。
でも颯真さんは、小さく頷いただけだった。
「わかるよ」
その一言が、胸に深く落ちる。
理解されたかったのかもしれない。
本当はずっと。




