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異国のカフェで、壊れかけた私を拾ったのは無愛想な菓子職人でした  作者: 深町 灯


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28話 「閉店後の灯り」

 閉店後の店は、昼間とは別の場所みたいだった。


 客の声が消えたあとには、オーブンの余熱と、食器を洗う水音だけが残る。


 私はカウンターを拭きながら、小さく肩を回した。


「疲れた?」


 後ろから声がして振り返る。


 颯真さんが、紙袋を片手に立っていた。


「少しだけ」


「今日、混んだからな」


 彼はそう言って、余ったシナモンロールをひとつ私の前に置いた。


「廃棄になるやつ」


「ありがとうございます」


 まだ少し温かい。


 指先に、柔らかい熱が残る。


 私は包装を開けながら、なんとなく聞いた。


「颯真さんって、ずっとドイツにいるんですか?」


 一瞬だけ、彼の手が止まった。


「……いや」


 それだけ答えて、グラスを洗い始める。


 聞かない方がよかったかな、と少し後悔した時だった。


「最初は一年の予定だった」


 水音の向こうから、低い声が返ってきた。


「でも気づいたら、長くいた」


 私は黙って続きを待つ。


「帰るタイミング、わかんなくなるんだよな」


 その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。


 ――帰るタイミング。


 私はそれを考えないようにしていた。


 ここは“仮の生活”のはずだった。


 夫の赴任が終われば、日本へ帰る。


 本当は最初から決まっている未来。


 なのに最近、ときどきわからなくなる。


 私は日本に戻ったら、また元の自分に戻るんだろうか。


 毎日時間に追われて、誰かの顔色を見て、自分の気持ちを後回しにする生活へ。


「……雨、止みましたね」


 窓の外を見ながら、私は話を変えた。


 石畳が街灯を反射している。


 夜のリューベルは、水に濡れると少しだけ映画みたいになる。


「送るよ」


 颯真さんが自然に言った。


「え?」


「遅いし」


「でも、そんな……」


「方向一緒だから」


 多分、半分嘘だった。


 でも私は、それ以上断れなかった。


 


 店を出ると、空気は驚くほど冷えていた。


 雨上がり独特の匂い。


 遠くでトラムの音がする。


 私たちは並んで歩いた。


 会話はほとんどない。


 でも、不思議と気まずくなかった。


 街灯の下で、彼がふと立ち止まる。


「寒くない?」


「大丈夫です」


 そう答えた瞬間、風が吹いた。


 思わず肩をすくめると、颯真さんが小さく笑う。


「全然大丈夫じゃないじゃん」


 そう言って、自分のマフラーを外した。


「え、いいです」


「風邪引かれる方が困る」


 半分強引に、首に巻かれる。


 柔らかいウールの感触。


 そこに残っていた微かな香りに、心臓が少しだけ速くなる。


「……ありがとうございます」


 小さな声しか出なかった。


 彼は何も言わず、また歩き始める。


 私はマフラーを握りながら、その背中を少しだけ見つめた。


 人を好きになる瞬間なんて、本当はわからない。


 もっと劇的なものだと思っていた。


 でも実際は、多分。


 こんな雨上がりの夜に。


 冷えた指先を、少しだけ温めてもらった時なのかもしれない。

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