27話 「雨音と、シナモンの匂い」
朝から雨だった。
リューベルの六月は、時々こうして冬みたいな空気になる。
窓ガラスに細かな雨粒が流れていくのを見ながら、私はキッチンでコーヒーを淹れていた。
娘はまだ眠っている。
静かな朝だった。
トースターの熱で少しだけ温まった部屋に、シナモンの匂いがゆっくり広がっていく。
昨日、スーパーで買った安いアップルパイ。
日本にいた頃なら、多分買わなかった。
でも最近は、“少し甘いものがある朝”が好きになっていた。
それだけで、一日が少しだけ優しく始まる気がするから。
スマホが震えた。
『今日、午後から店入れますか?』
パン工房のオーナーからだった。
私は時計を見る。
まだ七時半。
今日は本当なら休みだった。
少し迷ってから、
『行けます』
と返した。
働いている方が、余計なことを考えなくて済む日がある。
雨の日は特にそうだった。
店に着く頃には、雨脚が少し強くなっていた。
石畳が濡れて、街全体が灰色に見える。
だけど店の中だけは違った。
焼きたてのパンの匂い。
オーブンの熱。
コーヒーマシンの蒸気音。
誰かの笑い声。
私はエプロンを結びながら、小さく息を吐いた。
「今日は静かですね」
私がそう言うと、奥でクロワッサンを並べていた颯真さんが笑った。
「雨の日はみんな家にいるからな」
低い声。
少し眠そうな横顔。
その声を聞くだけで、胸の奥が静かになる時がある。
最近、それを認めるのが怖かった。
「でも、雨の日の店って嫌いじゃないです」
私がそう言うと、
「わかる」
と彼はすぐに答えた。
「なんか、世界から切り離される感じするよな」
その言葉に、私は少しだけ驚いた。
同じことを思っていたから。
雨の日のカフェやパン屋は、不思議だ。
外の冷たい世界から、少しだけ守られている気がする。
しばらくして、店に年配の女性が入ってきた。
濡れたコートを払って、ショーケースをゆっくり眺める。
「おすすめ、ありますか?」
たどたどしい英語だった。
私は少し考えてから、シナモンロールを指差した。
「これ、人気です」
女性は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、それを二つ」
商品を渡した時、
「あなた、日本人?」
と聞かれた。
「はい」
「私、昔東京に住んでたの」
思わず会話が続いた。
ほんの数分。
それだけなのに、不思議と心が温かくなる。
異国で、自分の言葉や国を知っている人に出会うと、それだけで少し救われる。
女性が帰った後、
「接客、向いてるな」
と颯真さんが言った。
「そうですか?」
「うん。ちゃんと相手見て話してる」
その言葉に、胸が少し熱くなる。
看護師だった頃も、そんな風に言われたことがあった。
だけどあの頃の私は、毎日必死で、自分が何を失っていたのかもわからなかった。
窓の外では、まだ雨が降っている。
私はトレーに並んだシナモンロールを見つめながら、小さく息を吐いた。
人生は、簡単には変わらない。
不安も、孤独も、多分なくならない。
それでも。
こんな雨の日に、温かいパンの匂いの中で笑える時間があるなら。
もう少しだけ、ここで生きてみたいと思った。




