21話 小さな「できた」
朝七時。
まだ空は薄暗く、窓の外には細かな雪が舞っていた。
ユヅキは娘のココアをテーブルに置きながら、小さく声をかける。
「琴葉、マフラー持った?」
「持ったー」
「手袋は?」
「……あ。」
やっぱり。
ユヅキは苦笑しながらソファの上の手袋を拾った。
ドイツに来てから、朝は毎日戦争みたいだ。
学校の準備。
慣れないお弁当。
急に届くドイツ語のメール。
トラムの遅延。
日本にいた頃より、ずっと余裕がない。
それでも最近は、少しだけ息がしやすくなってきた気がする。
「いってきます!」
「気をつけてね」
玄関の扉が閉まり、部屋が静かになる。
ユヅキはその場でふぅっと息を吐いた。
――さて。
今日は一人で役所に行かなきゃいけない。
滞在許可に関係する書類の確認。
ドイツ語だけの窓口。
考えただけで胃が重い。
役所の待合室は相変わらず無機質だった。
番号札を握りしめながら、ユヅキは何度もスマホの翻訳画面を見直す。
大丈夫。
たぶん大丈夫。
そう言い聞かせているうちに番号が呼ばれた。
窓口の女性は、早口のドイツ語で何かを説明する。
半分くらいしか分からない。
ユヅキは必死に聞き取りながら、用意してきた書類を差し出した。
「Ähm…das…okay?」
発音も文法も自信がない。
でも女性は書類を確認すると、少しだけ表情を緩めた。
「Ja, alles gut.」
――大丈夫ですよ。
その瞬間。
胸の奥の緊張がふっとほどけた。
「……ありがとうございます」
たったそれだけ。
本当に小さなこと。
でも、ドイツに来たばかりの頃なら、一人でここには来られなかった。
役所に行くだけで泣きそうだった。
帰り道、ユヅキは雪の残る歩道をゆっくり歩く。
冷たい空気なのに、今日は少しだけ世界が明るく見えた。
その時。
スマホが震える。
――レオン。
表示された名前に、思わず足が止まる。
【役所どうでした?】
短いメッセージ。
でも、どうしてか胸があたたかくなる。
ユヅキは少し迷ってから返信した。
【なんとか一人でできました】
送信して数秒後。
すぐに返事が来る。
【それは“なんとか”じゃなくて、ちゃんとできたんですよ】
その文章を見た瞬間。
なぜか涙が出そうになった。
誰にも分からないと思っていた。
海外で生活する中の、小さな緊張や、小さな達成感。
でもこの人は、ちゃんと気づいてくれる。
ユヅキは白い息を吐きながら、スマホを胸に抱えた。
雪はまだ静かに降り続いていた。




