16話 「いちばん安心する場所」
カラン、とベルが鳴る。
颯真さんはカウンターの奥でコーヒーを淹れていた。
私を見ると、一瞬だけ目を丸くする。
「珍しい時間」
「……近くまで来たので」
本当は違う。
気づいたら来ていた。
でも、それを正直に言う勇気はなかった。
「寒かったでしょ」
そう言いながら、颯真さんは何も聞かずに温かいカフェラテを置く。
その自然さに、少し救われる。
私はマフラーを外しながら、小さく息を吐いた。
「疲れてる顔してる」
「そんなに分かります?」
「分かる」
私は苦笑いした。
少し迷ってから言う。
「今日、駐在妻のランチ会だったんです」
「あー……なんか大変そう」
「偏見ですよ、それ」
「違う?」
否定できなくて、私は笑ってしまった。
颯真さんもつられて笑う。
店の中には静かなジャズが流れていた。
窓の外は曇り空。
冬の午後独特の、青っぽい薄暗さ。
「みんなちゃんとしてるんですよね」
気づけば私はぽつりとこぼしていた。
「綺麗で、ちゃんとしてて、子どもの教育とかもしっかりしてて」
「ユヅキさんもちゃんとしてるじゃん」
「してないですよ」
即答だった。
自分でも驚くくらい。
「全然うまくできないです」
夫婦も。
子育ても。
将来も。
ちゃんとしたいのに、空回りばかり。
颯真さんは少し黙ってから、静かに言った。
「でも、ユヅキさん頑張ってる感じする」
その言葉に、喉が詰まりそうになる。
私は慌ててカップを持ち上げた。
泣きそうだった。
そんなふうに言われたの、いつぶりだろう。
「……ありがとうございます」
声が少し震える。
颯真さんは何も追及しなかった。
ただ、いつも通りの距離でそこにいる。
その優しさが危ない。
私は分かっていた。
ここに来ると安心してしまう。
帰りたくなくなる。
その時だった。
カウンターの端に置かれたスマホが鳴る。
颯真さんが画面を見て、少しだけ表情を変えた。
私は反射的に視線を逸らす。
けれど。
一瞬だけ見えてしまった。
――『元妻』
胸が、静かにざわついた。




