第九話
この老剣士サルマンが、その後どうしているのか、僕は知らない。
あの一件いらい、老人のことを訊ねてまわるのはきっぱりやめた。
正直なところ、思い出したくもなかった。
なんの事情や背景があってサルマンが僕との決闘を望んだのかは知らないが、少なくとも、あの砦での僕の振る舞いが、かれの心に強い軽蔑の念を起こさせたのは間違いなかった。
しかし爺さんはキレもせず、淡々と砦の防衛のために必要な処置を取っていた。
ようするに僕は相手にされていなかったのだ。
そのことを思い出すのは、あまり愉快なことではなかった。
それからいろいろあって準男爵の叙勲を受け、永久機関の一件がなんとか片付いたころのことだ。
ビクターに招かれてラッセル伯爵家の屋敷を訪ねると、旅の荷物を抱えた十代なかばくらいの子どもたちが十数人、離れに続く渡り廊下をぞろぞろと歩いていた。
伯爵家の役人たちがしきりに動き回っている。
子どもたちに部屋の割り当てをしているようだった。
「なんだあれは」
と、ビクターに訊ねると、
「もうそろそろ受験のシーズンだからな」
と、ビクターは言った。
「ランクール(ビクターの領地である)の学校に通う子どもたちのなかで、成績優秀なものには、帝都の学校を受験させることにしている。
近頃はどこの大貴族もそうだよ。
うちは今年は十五人程度だが、カルディオネ家やマンティコア家では五十人は下らないんじゃないか」
大貴族の屋敷は、江戸時代で言うところの藩邸の機能も兼ねていたので、国もとから学業を志して上ってきた自領の子どもに、屋敷の部屋を使わせてやることが多々あった。
それは近頃では貴族の責務とさえ目されていた。
ビクターは子どもたちを眺めながら腕を組み、ひとり頷きながら、
「もう、自領から魔物さえ追っ払っていればいいという時代は終わったんだ」
と、語りだした。
「これからは学問だよ、マキシム。
そう、学問だ」
なかには十歳にも満たない子供も混じっていて、ホームシックに駆られたのか、廊下でわんわん泣き暮れていた。
「貴族もガキどもも大変だな」
夕暮れのころになってビクターの屋敷を辞した。
あれほど明るかったさわやかな空はいつのまにか黒い雲に覆われ、雷がときおり帝都を紫に染め上げて、大気を振動させていた。
行商の親父が大声をあげて、使用人たちに品物の布を片付けさせている。
街の広場や通りにうごめく人影はみな、空を不安げにみあげては、足早に歩いていた。
生憎、激しい雨になり、やむなく皮製品の店の軒先にかくれて雨宿りをした。
店のなかから膠の独特の匂いがたちこめてくる。
石敷きの道路をたたく雨粒が、店の投げかける明かりのなかで、ぱちぱちと弾けていた。
そんなものを観察するより他に、時間の潰し方がなかった。
雨は止まない。
ずぶ濡れになるのを覚悟で、この驟雨のなかに飛び込んでいこうかと思ったとき、すこしさきの角からふらりと現れた人物に、眼がとまった。
白髪を後ろで束ねた老剣士。
サルマンである。
あっと思った。
僕は店の軒先から飛び出て、人込みを縫いながら、走った。
雨と暗がりのせいで先がよく見えない。
しかし見失うわけにはいかなかった。
懸命に遠くに目をこらして走るものだから、ときどき通行人にぶつかった。
その都度、「すまん」とか「許せ」とか詫びて、なんとか老人が折れていった角へとたどり着いた。
ビクターが受験シーズンだと言っていたが、なるほど軒をつらねる宿屋には子どもたちが大勢詰めかけていた。
これでは宿を取るのも一苦労だろう。
そんなことを思いながら、大粒の雨のなか、老人の影を追った。
二度、三度、道をおれて、ふと気づくと、裏路地で、三人の子どもが、それぞれ荷物を抱えて肩を寄せ、恨めし気に空を見上げていた。
「ちょっと聞いてもいいか」
と、僕は年長らしき少年に声をかけた。
「ここを、白髪の老人が通らなかったか。
剣士だ。
腰に剣を佩いていたはずだ」
「すらねえです」
と、少年は言った。
他のふたりの子は、首を振る。
すらねえですとはなんだ、と暫く考えて、ああそうか、知らないです、が訛っているのか、と気が付いた。
北方からきた子たちだろう。
そういえば、サルマンも北方の出身だったな、と思いながら、
「こんなところでどうした。
宿が取れないのか」
「どごもいっぱいで、あぎがねえそうです」
と、十歳くらいの女の子が言う。
「帝都の学校を受験しに来たのか」
三人はそろって頷く。
「どこから来た」
「ウェイルロード州、ヴォイド郡、です」
「そうか……」
妙な偶然もあるものだ。
「あのう、あだしたちもお訊ねしてええですか?」
僕はうなづいた。
「剣聖さまの……マキシム・ヴォイドさまのお屋敷はどごでしょうか」
「知ってどうする」
「わだしたち、ヴォイド郡の領民なので、……ご迷惑でなげれば、馬小屋でもお借りでぎればと」
さすがに僕も、知らないとは言えなかった。
降参するしかない。
「奇遇だな。
僕がそのマキシム・ヴォイドだ。
アパート住まいなので馬小屋はないが、居間の床なら貸してやれる。
それでいいか?」
僕は三人を連れて帰ると、メイドに世話を丸投げした。
仕事が忙しいので仕方がない。
それから十日ほどして、三人は受験を終えると、僕にていねいな挨拶をして、北へと発っていった。
その後ひと月ほどして、三人のうちふたりが合格したことを報告し、領主でもないのにアパートに泊めてくれたことを謝する手紙が届いた。
ヴォイド郡の有力者たちが連名でしたためたものらしい。
我々は常日頃より、ヴォイド様の御武名をお慕い申し上げておりました。
ついては、ぜひヴォイド郡の領主にお迎えしたい。
ご迷惑でなければ、嘆願の活動をお許しいただけますまいか、ということだった。
僕はふたりの合格を祝う言葉と、もうひとりを励ます言葉を認め、それから領地を預かる気はまったくない、とはっきり書いて返信した。
しかし有力者たちは納得せず、たびたび嘆願の許可を乞う手紙を送ってきて、ときにはヴォイドの関係者が手渡しで持ってくることさえあった。
それ以降、ヴォイドからやってきた行商人や、ヴォイド出身の冒険者から
「ヴォイドの殿様」
などと呼ばれるようになり、閉口させられた。
剣聖の次は殿様ときたものだ。
ヴォイド郡が武威のある領主を欲していたのには、事情があった。
もとより北部はさらにその北方から魔物がたびたび流入しており、いくさに強い領主を立てることは死活問題だったのだ。
そのあたりは理解できたから、僕は依然として領主になるつもりはないけれども、嘆願したいなら勝手にすればよい、それはあなた方の自由だ、と書き送った。
そうしていよいよかれらの嘆願が実を結んだと見えて、宰相閣下からガン詰めを伴う打診を受けるに至った、という訳だった。




