黄金の林檎
「フローティア殿。バルドリー侯爵と離縁して私の妻になりませんか?」
───とは、グラヴィヴィスが私に対して一番最初に口にした『求婚』の言葉。
あれはフェスタンディ殿下とプシュケーディア王女の婚儀を終えた翌年、年明け間もない頃の事だったと思う。
大公城で出会ったグラヴィヴィスとサラ夫人は友誼を結び、セセ・ペンテス別邸に頻繁に出入りするご友人達の一人になっていることに気づいたのは、グラヴィヴィスとサラ夫人が歳は離れているけれど気の合う友人同士であると周知されてからのこと。
グラントは自分が代表となった商会の仕事、私はユーシズに立ち上げる織機の基金の立ち上げの仕事やバルドリー家運営のお手伝いやお勉強に追われていて、本当に気が付いた時にはグラヴィヴィスは不自然無くセセ・ペンテス別邸に馴染んでしまっていたのだ。
確かあれはとても寒い日が数日続いた後の事で、アズロー公爵夫妻から所領の湖での氷上橇や釣りと言った寒中遊戯のお誘いを受けたサラ夫人がグラヴィヴィスをエスコートに出かけようとしていた日の事だった。
彼が滞在中の大公城からセセ・ペンテス別邸に到着したのは予定よりも随分と早い刻限で、サラ夫人の支度が終わるまでのあいだ私はグラヴィヴィスのお茶のお相手を務めていたのだけれど……グラヴィヴィスは最初からそのつもり《・・・・・》で約束の時間より早く屋敷を訪問したんじゃないかとの疑うのはうがち過ぎなのだろうか。
彼がどういうわけか私に好意を寄せてくれているとは、本人の口から聞いていたコト。だけどグラヴィヴィスが私に妻にならないか……なんて言い出すとは夢にも思わなくて、私は本当に驚いてしまった。
だって私は既婚者なのだし、しかも……しかも……その場には私だけでなく、たまたま外出が中止になっていたグラントもいたのだもの。
「……」
これは一体どういう状況なのだろう。もしかして社交界ではこういう冗談が流行しているとか?
困り果ててチラリと横に目を向けると、隣りの椅子の上でグラントが石像のように固まっていた。
秀でた額の上でやや持ち上げられた左の眉に彼の驚きの気持ちが見て取れる。
グラントの様子から見てまさか……本当に本気で言った……と、言うことかしら……。
このトコロ少しずつ鍛えられてはいるけれど私の対人能力はとても低く、特にこう言う不測の事態には当て出来ないのだけれど、だからと言ってもしかしたら冗談では無い『求婚』の返事をグラントに言わせるのもどうなのだろう。
普段私の頭の回転はさして速い方じゃない。少なくともそう……グラントや目の前にいるグラヴィヴィスのように特別冴えた人間に比べれば、それこそ平々凡々と言う程度。
ただこの時は本当に、ヒュンヒュンと風切り音でもしそうなくらい猛烈な勢いで私の思考は推移した。もしかしたなら隣で固まるグラントよりも早かったかも知れない。
『まあ、ご冗談を……』
と言う言葉は最初に浮かんで真っ先に却下したモノ。
相手が本当に冗談を言った時にもまた、何かの間違いで本気だった時にも本当に『冗談だった事』にしてしまう言葉として有効かも知れないけれど、なんだかそれを言うのはとても卑怯な気がした。
しかも、ああ……そうだわ。ルルディアス・レイでグラヴィヴィスから気持ちを告げられた時、私はおろかにもこの『ご冗談を』と言うズルい言葉を口にして『冗談ではありません』と、あっさり返されてしまっているのだ。同じ過ちを繰り返すのは愚か者のすること。
あの時の私は動揺のあまり手元にあった鳩の餌をひっくり返し、鳩に集られ恥ずかしい思いをした。だから同じ轍は二度と踏みたくないのだけど、『淑女の礼節と返礼問答集』や『社交の規範的回答書』などの書籍は参考書として優れていても、既婚女性が口説かれた場合の回答例は記載されていなかった。
既婚女性が求愛される例が記載されていると言えば……レレイスから送られて来た怪しげな書籍がそうだったけれど、あの本の場合、言い寄られた女性の口から出てくるのは謝絶の言葉じゃなくむしろ殿方を誘惑する……ああ、ダメ。
あんなモノを今うっかり思い出しては、ただでさえ混乱しているのに大変な事になってしまう。
頭の中で私の思考は暴走し、迷走し、結局口に出て来た言葉と言えば
「……お断りします」
なんて言う素っ気ない一言だけ。
もう少し気の利いた婉曲な言葉だってあるはずなのに、どうしてこうなってしまうのか……。
胸の奥に煩悶する私の前、グラヴィヴィスはその薄茶色の瞳を一つ二つ瞬かせ、それから、ふと笑った。
「では、今日のところはこの辺りで引く事にいたしましょう」
どうしてかそう言ってティーカップに口を付けるグラヴィヴィスの表情は楽し気で、『求婚』を断られた事で痛痒を感じている様子は見あたらなかった。
……やっぱりこの人の行動は私には理解出来ないし、グラントも彼がサラ夫人と連れだって出かけた後
「何のつもりなんだアレは……」
と、渋い表情でそんな事を呟いていたところを見れば、彼にとってもグラヴィヴィスは理解しがたい相手なのだろう。
あの日からグラヴィヴィスは時おり思い出したかのように私に結婚の申し込みをするようになり、私はその都度、断りの言葉を返し続けている。
申し込みはグラントが一緒にいてもいなくても、周囲に他人の耳目が無く且つ彼の気が向いた瞬間に口にされているようだ。
最初に躓いてしまっているのだから、美辞麗句に紛れ込ませた婉曲な謝絶はすでに諦めた。気取ったり取り繕ったりするには恋愛事への経験値があまりに不足しているし、なにしろ返答はすべて断りの言葉なのだから取り繕う必要もなく、私はただ自分の気持ちをそのまま言葉にしているだけ。
「正直……もしもバルドリー卿より先に出逢えていたらと思わずにはいられませんね」
二度、三度……幾度目かの『求婚』への断りの言葉を返した私に対し、ある秋の日、グラヴィヴィスはふと息を吐くように小さく笑いながらそんな事を言い出した。
彼が『もしも』と言う絵空事を口にするなんて珍しい。
だけど……もしもグラントよりも先に彼に出逢っていたらと言うのは、状況的に考えてとても難しいのではないのかしら?
時系列的に考えればリアトーマ国とアグナダ公国とが冷戦状態にあった頃。
……となると、もしかしたらブルジリア王国のルルディアス・レイが流行病に見舞われた前後なのだと思う。
エドーニア自体は周辺各国から物見遊山の人々が訪れる風光明媚な避暑地ではあるけれど、そこにサリフォー教会の聖職者が来る機会はあるのかどうかは心許なく、彼にとって時期も悪いし場所もどうかと思う。
かと言って、あの当時の私が海を渡りブルジリア王国へ行くなんて事は本当にあり得ない。
私は周囲を見渡した。
秋のユーシズは雲一つなく晴れ渡り、林檎園には赤く実った果実から甘い林檎の香りがそよ風と混ざり漂って来る。
毎年の恒例事。秋の狩猟シーズンの開幕を数日後に控え、バルドリー家主催の狩猟会開催の準備が進められていた。
殿方や狩猟を趣味とする女性は狩猟犬を連れて馬に乗り、その日は早朝から森へと向かう。しかし狩猟には参加しない同伴女性の大半は、このバルドリー家本邸で殿方らの帰りを待つ間、お茶や音楽、詩の朗読などを楽しみながら時間を潰すとのが例年の事。
今年は林檎園でのガーデンパーティで留守居の方々をおもてなしする事が決まっており、今現在バルドリー本邸の林檎園では幾張もの日除けの天幕や、簡易竈の設営の作業が行われていた。
忙しく立ち働く使用人達は私やグラヴィヴィスの会話になど耳をそばだてたりはしていない。
その事を確認して、私は溜息と共に口を開いた。
「……それは、難しいのじゃないかしら」
彼の言う『もしも』はあくまでも『もしも』であって、現実として考えるようなものでは無い事くらい私にも分かる。
だけど───
「だってそうしたら……きっと、貴方は私には見向きもしなかったのではないかと思うわ」
───そうなのだ。
仮定上の万難を排しもし私達が出逢ったとしても、グラントに出逢う事の無かった私にグラヴィヴィスが想いを寄せるようになるとは……とてもじゃないけれど思えない。
「そんな事は───」
「───無いなんて、それこそありえなくてよ」
エドーニアで一人、人に名を名乗る事もなく得体の知れぬ女として過ごしていたあの頃の私は、今の自分とまるで別人。
「貴方の知っている私は、グラントと出逢ってからの私なのだもの」
美しいエドーニアで暮らしながらもあの頃の私は心底寛げる時を持たず、街を訪れる人達に向けるのは疑いの目。幾重にも心を鎧った殻の中で小さく縮こまって生きていたのが当時の私。
今の私とはたぶん、まるきり違う。
……確かにあの頃にはあの頃なりに楽しい事もあって、小さな日々の喜びもあったけれど……私は今のように日の光の下、こうして手足を伸ばし身体の力を抜いて人生を楽しむ事など出来なかった。
あの頃の自分がいたからこそ今の自分があると言うのは偽りの無い事実だけれど、どういう風に言葉を尽くして誤魔化そうとしたところで、今に比べてあの当時の私は幸せではなかった。
もしもグラントに出逢わなかった人生を思うと、頭上に広がる透き通った高空も、その下の果樹園の馥郁たる甘い香りを漂わせる林檎達の得も言われぬ熟した紅さも、すべてがその香気と輝きを消して灰色に色を失う。
もしかしたら今の自分の幸せが本当は夢なのではないか……と、私には時折現実を見失いそうになる瞬間がある。
グラントやサラ夫人との寛いで穏やかな夕べのひと時。楽しい話題に笑みをこぼす幸せな瞬間の直後、もしかしたらこれは全部『夢』なのではないだろうか……などと、自分の正気を危ぶむ事こそ正気の沙汰では無いのかも知れない。
だけど、瞼の裏に焼き付いた父様の死に顔に苦しみながら、私の本当の名を知る人間も、親しく打ち解け合う相手の一人もいないあのエドーニアの街外れの館で今も私は一人で暮らし、孤独で静かな狂気の中に飲まれ、現実にはあり得ない夢を見ているんじゃないかとの疑いを私はふとした瞬間に抱いてしまう。
今が本当に幸せで、信じられないくらいに幸せで……昔との落差のあまりの大きさがその妄想を連れて来るのかもしれない。
疑う事でより深く、鮮明に今の幸せを味わおうと言う無意識の心の動きなのかもしれないけれど、もしもこの今が『夢』だったら……と、そう思う瞬間の恐ろしい空虚さは、とても言葉には言い表すことが出来ない。
寒々しくも虚ろな心持は瞬間的なモノで、すぐに暖かくて幸せな現実が周囲に戻って来てくれる。
私の瞳が時折光を失くす事を恐らくグラントは気が付いていて、そう言う時に彼は必ず私を暖かく力強い腕で抱き寄せてくれた。
「……昔の自分に戻るのなんて、嫌だわ」
胸の奥底、一番深い部分から浸み出すように言葉になった呟きは、意図せず暗い響きを帯びてしまった。事情を知らない相手に聞かせるには今の声はいささか陰気に過ぎる。
「ああ……ごめんなさい」
どこかのインチキ商人とは違い咄嗟に上手い言い繕いが出来るわけもなく、気の利かない謝罪を口にする私にグラヴィヴィスは
「いいえ、こちらこそ詰まらぬ愚痴でお気持ちを乱してしまったようで申し訳ありません。とりあえず今日もこの辺で引くといたしましょう。……お仕事の邪魔をして失礼しました」
……と、言ってくれたけれど、いつも彼が浮かべている穏やかな笑みがその口許へ浮かぶまで間があいたトコロを見れば、機知の利かない今のやり取りに興覚めしたのかも知れない。
もともと彼は私に気持ちがあると告げた時、想いの成就は望まず片恋の苦味を楽しんでいるような事を言っていたのだ。興が失せればグラヴィヴィスの不品行で実り無い片恋も終わるだろう。
国許で見た宗教家としての清廉な顔から華やかな若い貴公子の姿へと衣替えしたグラヴィヴィスは、その姿に似つかわしい優雅な仕草で私の手を取り退出の挨拶として手の甲に上品な口づけを一つ落とし、屋敷の方へ歩み去って行った。
そろそろサラ夫人の狩猟仲間の中で気の早い方が到着してもおかしくない頃合い。
カードで遊びつつ軽い飲み物に喉を潤し、明日の猟果を夢想して罪の無い賭け事を始めるのもまたこの狩猟期の楽しみ方の一つ。彼もその輪の中に入り、豊かな秋のひと時を味わう事だろう。
象牙の杖の柄を握り、私は手を差し伸ばしてその実の重さに枝を撓ませる真っ赤な果実に指で触れた。
彼には人妻である私では無く、もっと素敵なお嬢さんが相応しい。
この果樹園に実る林檎の数ほど世には乙女がいるのだもの。グラヴィヴィスが相手なら大概の娘さんは喜んで彼の手に瑕一つない美しい誘惑の果実をもぎ取らせることだろう。なにも人の噛み跡のついた林檎など欲しがって、不道徳な恋情に時を無駄にすることは無いのだ。
林檎の果実から漂う甘い香に鼻腔をくすぐられる心地よさに唇を綻ばせながら、私は赤い実を実らせる枝間に見え隠れするスラリと背の高い後ろ姿を見送った。
* * *
「フローに振られ、それを引きずったらそういう間抜けなザマになったと言うことなのですね……グラヴィヴィス」
狩猟シーズンの幕開けを飾るバルドリー家主催の狩猟大会の翌々日の午後だった。
バルドリー侯爵家ユーシズ本邸に宿泊していた人々も、帰宅する者とユーシズに居残り更に森での狩りを楽しむ為に貴族用の高級宿や狩猟用の別邸等へ移る者とが散り、屋敷に残ったのはサラフィナと特に仲の良い幾人かの友人と、ブルジリア王国王弟グラヴィヴィスだけとなっている。
その友人らも朝早くから狩猟へと出かけて、この時間に庭に面する大窓の部屋で茶杯を傾けているのはサラフィナとグラヴィヴィスの二人だけだ。
「相変わらず手厳しい。私の事は捨て置いてご自由にお出かけになればと申しましたのに」
「あら、まあ……私に客人として訪れている他国の王族を放って狩りに出かけろと? その足だって我が家主催の狩猟会で挫いたと、皆が承知の事なのにですか?」
日の当たる窓辺、サラフィナが暗青色の瞳を向ける先には、脚付きの茶杯を傾けるブルジリア王国王弟とその傍らに立てかけられた松葉杖。
大々的に開催されたバルドリー侯爵家主催の狩猟会で、グラヴィヴィスは騎馬からの下馬時に森の下草の上に積もった落ち葉に足を取られ、右の足首を挫いたのだ。医師の見立てでは骨にまで異常は無かったものの、暫くの間は杖の世話になるだろうと申し渡されてしまっている。
例年ならば、狩猟シーズンの開幕と同時にサラフィナは仲間と一緒に、または単独で、日々犬と馬とを伴連れに森を駆けるのが常だった。だがこの日は天気も良く、暑過ぎず寒過ぎず風向きも良い狩猟日和でありながらサラフィナはこのブルジリア王国の王弟と対面で茶杯を傾けていた。
「サラ夫人がそんなくだらない外聞を気になさるとは思いませんでした」
窓の外、風に乗って微かに響く狩猟喇叭は誰かが獲物を捕らえた合図。その音の出どころだろう黒々と霞む遠くの森へと視線を向けつつ、グラヴィヴィスは小さく肩を竦めた。
ふう……と、ティーテーブルを挟んだ向う側から聞こえたのは大きなため息。そして
「馬鹿な子ですね……」
と言う、呆れの気持ちを隠さぬ呟き。
「まあ……確かに馬鹿だとは思いますが。……馬鹿な『子』と呼ばれるのは……もし記憶通りなら初めてのことかも知れませんね」
「馬鹿な『子』以外の何者でもあるものですか。グラヴィヴィス、貴方の言う通り脚を挫いた客人など放って出かけても私は何とも思いません。だけど貴方と来たら、まあ……ウチのグラントも小僧の頃には結構な馬鹿をやっていましたけれど、アレは馬鹿をやるにふさわしい年代だったからこそ洒落になっていたと言うのに……そんな情けない顔をした友人を放っておくほどワタクシは薄情な人間ではありませんよ」
はあ……と、再びの嘆息。
「だいたい何ですか。貴方はワタクシの息子の妻に『求婚』していた……と、そう言うふざけた事をしていたと言うのですね? それも、一度や二度ではなく複数回……」
その台詞にグラヴィヴィスは自分の失言を悟り、だが悪びれる様子もなく薄茶の瞳を瞬かせた。
「ああ、そう言えばこれは家庭不和の種にでもしようかと黙っていたのでした。……そうですか。さすがにバルドリー卿らも貴女にまで相談はしていなかったようで……」
自分の妻に求婚者がいること自体がとんでもない非常識であり、それを母親に相談するなどあらゆる方面の意味からも、当たり前の感覚を持つ者なら出来はしない。それを前提としてグラヴィヴィスは離間工作を考えていたのだが、実際に実行することは現時点まで一度も考えたことは無い。
「まったく考える事は碌でもなく油断も隙も無いと言うのに……今はまるきり毛の生え始めの小僧のよう」
いささか貴婦人らしからぬ表現混ざり。呆れを隠さぬ顔でサラフィナは目の前の貴公子然とした若い男を眺めやり、普段は年齢に見合わぬ泰然自若としたグラヴィヴィスがどことなし、力ない笑みを口許に張り付けているのを見つけてると、その瞳から険を消した。
「何度も振られて今まで平気な顔をしていたと言うのに、一体どうしたと言うのですか貴方は。想いの成就など目的とはしていないとさっきは仰ったじゃありませんか」
「……そのつもりだったのですけれど」
歯切れ悪く口中に呟くグラヴィヴィスの表に浮かぶのは、苦笑い。
彼としても最初から淡い気持ちに成就があるとは思いもしない。立場がそれを邪魔するのはもちろん、相手は誰でもなくあのグラント・バルドリーと言う男。努々愛妻を奪われるような下手をうつことが無い上に、フローティア本人に微塵ほどもその心積りがないのは端から承知していたのだが……。
「自分のせいでフローティア殿に暗い目をさせてしまって……そんなつもりでは無かったのですが」
口許に笑みを張り付けたままそんな事を言う年下の友人の様子に、サラフィナは小さく首を振った。
「王族の貴方の指示で今までも何人もの人間の首が文字通り幾度も飛んでいるでしょうに。意中の女に嫌な想いをさせたと言って、そのていたらくとは……どうしようもない『小僧』ですね」
「何人……と言うか、桁が違いますけれど。……まったくその通り返す言葉もありません。自分でも一体どうなっているのか……と」
「しかもそれをフローの姑に愚痴るなどとは、これ以上滑稽なことなどないでしょうに」
三度。大きくため息を吐きながら、サラフィナは辛気臭い友人の対面の席を立ち、ティールームの壁面の炉棚の硝子扉を開けると金色の液体に満たされた飾り瓶を手に再びグラヴィヴィスの前へと戻って来た。
女性にしては骨のしっかりした手でカッティンされた飾り瓶の栓を捻じるように引き上げると、ポン……と良い音を立ててそれを開ける。瓶の中から室内に甘く香ったのは、熟成した林檎の香り。
「……日はまだ高いですよ?」
自分が手にした脚付きの茶杯の中、問答無用で林檎のワインが並々と注ぎ込まれる様を眺めつつ、グラヴィヴィスが笑う。
「こんな馬鹿馬鹿しい話、素面で出来るわけがないではないですか」
「昼日中から一人身の王族と未亡人が酒盛りとは、酷い醜聞になりますね」
「……貴方とフローの間に醜聞が立つよりは随分マシですよ」
グラヴィヴィスは年上の友人の手から林檎のワイン瓶をそっと取り上げ、テーブルの上に置かれた彼女の茶杯に自分の茶杯と同じようにその黄金色の液体をたっぷりと注ぐ。
「……たった一人の女性に少し嫌な想いをさせたと言うだけで、まさかこれほど堪えるとは思いませんでしたね」
「だから貴方は馬鹿な『子』だと言うのですよ。そういう気持ちが分かったのなら、さっさと完全に想い切って失恋しておしまいなさいな。自棄酒の相手よりもワタクシは惚気話を聞いた方がまだしもです」
「過去のフローティア殿の事は知りませんけれど、どうにか今の彼女に振り向いて貰えないものか……」
「無理でしょうね」
「身も蓋も無いことを……。彼女が望むのなら、ブルジリアの玉座くらい取って見せるのですが」
「そんなものフローが欲しがるわけがありません」
「……分かって、います……」
ワインと紅茶の混合物を飲み下し、喉の奥から鼻先へと立ち上るように香る香気をより深く感じようと、グラヴィヴィスは瞼を閉じた。
樽の中、年数を経て熟成した黄金色の林檎のワインは新鮮な林檎よりも深い味わいと薫香を培う。
瞼を開ければ年嵩の友人が殆ど空となった茶杯に再びなみなみと黄金色の液体を注ぎ込む姿がグラヴィヴィスの目に入った。
「とても美味いワインですね。……この黄金色のワインの林檎をもいだのは、一体どこの誰なのでしょう……」
「……少なくともグラヴィヴィス、貴方でないことは確かでしょう」
隠喩的表現も一刀両断。けんもほろろにあしらわれる。
意中の女性の愛する男の母を相手。愚痴を漏らし、返される慰めではなく偽りなしの現実のみ。だが、呆れながらも心配し、そして自分に付き合ってくれているのもまた事実。
滑稽でいて残酷な、しかし優しい現状に彼の唇には自嘲でも取り繕いでもない笑みが浮かんだ。
「……そう言えば、セセ・ペンテスの一部の方々の間に、私と貴女との醜聞があることをサラ夫人はご存じでしょうか?」
グラヴィヴィスの言葉を耳に、手ずから自分の茶杯にワインを注ぐサラフィナは息子と似た笑みに片方の唇を微かに吊り上げた。
「馬鹿馬鹿しいこと」
「……そうでしょうか。私としても傷心の折には噂を真実にするのもやぶさかではいと思っていたのですが……」
「まあ……貴方はアクシではないのですもの。考えられないわ、絶対に嫌」
「……この家の女性陣は本当にツレないですね」
「自分好みの美味しいお酒が飲みたいのなら、手抜きせずに果実を収穫するところからお始めなさい。グラヴィヴィス」
冗談めかしつつも優しいその窘めの言葉を耳に、ブルジリア王国王弟は茶杯に唇をつけてまた瞼を閉じた。
「私の黄金の林檎は……どこにあるのでしょうね……」
喉の奥へと滑り落ちる芳醇なワイン楽しみ、独り言じみて呟く言葉に浮かぶ面影は、藁色の柔らかな髪に金緑の瞳を持つ愛おしい女性の顔。
いつの日かこの面影が別のものへと塗り替えられる時があるのか危ぶみながら、グラヴィヴィスは口中に残る甘い余韻を楽しんだ───




