『銀の杖と北の方舟』12
「まったく……本当になんだってこんな時期に……」
眉間にくっきりと皺を刻み込んだグラントが、デカンタから赤いワインをゴブレットに乱暴に注ぎ入れながら唸るように言った。
たっぷり2クォート以上入っていたワインのデカンタは、既に殆ど空になっている。
食事の最初に私もグラントもそれぞれエールを1パイントのタンブラーで戴いているから、もしかするとちょっとばかり飲み過ぎているのかもしれない。
ワインの消費には、私も結構な量の貢献をしていた。
……でも全然酔った気がしないのは、面倒な問題に頭を悩ましているせいだろうか。
ディダを通じてグラヴィヴィスは『会いたい』と私に伝言を寄越した。
……けれど、グラントの言うとおり今は少しばかり『時期』が悪過ぎる。
なにしろサリフォー教会が公式に使用を許可する『銀の翼』の意匠アクセサリの最終選考会が近づいている。
曲がりなりにも最終選考に残った工房の大本である商館の関係者、『グラント・バーリー』の妻の私がグラヴィヴィスに接見を求めると言うのはいかにも拙いような気がしていた。
恐らく選考会当日、試作品についてのプレゼンはグラントが『グラント・バーリー』として行うことになる筈なのだから、この時期に『バーリー姓』で面会のアポイントメントを取ったなどと言うことが公になれば、選考会の公正さについて要らぬ憶測を招かないとも限らないではないか。
かと言って『バルドリー侯爵夫人』としてグラヴィヴィスと会うというのは、また違う誤解を生じそう気が進まない……。
世間に広まった『噂』は既に荒唐無稽な発展と進化を遂げ、私の正確な名などすっかりぼやけてしまっているけれど、事情を知る人間が居ないと断言できない以上、うかつなことはやらぬ方がいいのではないかと思えるのだが……。
正直なところ伝言を聞かなかったことにしてしまいたいくらいだけれど、そんなことをしてはディダの立場が悪くなるんじゃないかと心配だ。
せっかくディダの学問への道が開けそうな時に、足を引っ張るようなことは出来る訳が無い。
「……最終選考会が終わった後で……って訳には行かないのよね?」
テーブル越しに突き出したゴブレットにデカンタの最後の残りのワインを注いでもらいながら言う私に、グラントは首を左右に振って答える。
「選考会前にキミが俺と一緒にこの街に来るだろう事。それにノルディアークでまともに話も出来なかったディダに会いに行くだろうと言う事も、グラヴィヴィスは予想していたはずだ。もちろん生真面目なディダがお嬢さんに会ったらすぐにグラヴィヴィスからの伝言を伝えるだろう事もね」
……ルルディアス・レイに私達が来る時期を予想しつつ網を張っていたのなら、この時期に私を呼び出したいそれなりの訳があるのかもしれない。
一口大に切ったフラットブレッドカリッとトーストした上にクリームのように濃厚な山羊のチーズを載せた物を肴に、私は残りわずかのワインを喉の奥へと流し込む。
「そうよね。仕方が無いわ。明日にでも教会事務所にグラヴィヴィスとの面談のアポを申し入れてくることにしましょう。やっぱり……その、バーリー姓では拙いわよね? いいわ、本当は気が進まないけれど『フローティア・バルドリー』の名でのアポイントメントをとるようにってシェムスにお願いするわ」
「いや『フローティア・バルドリー』じゃなく『グラント・バルドリー』でアポは取ってもらうとしよう」
「……グラントの名前で? なぜ? ……だって、グラヴィヴィスは『私に』ってディダに伝言したのよ? 貴方も一緒に来るという事??」
それに仕事がひと段落したとは言え、まだまだグラントにはやらねばならないことはたくさんあるというのに……。
この話を始めてからずっと刻まれ続けて消えることの無かったグラントの眉間の皺が、これ以上は無いくらいに深くなったように見えた。
こんなに深く眉間に皺を刻み続けてはこのまま消えずに残ってしまうのではないか……と、的外れな心配が脳裏を過ぎる。
「キミとグラヴィヴィスを二人きりで会わせるなんて事、出来るわけがないじゃないか。……それに……」
ゴブレットの中のワインの最後の一口をむっつりした表情のまま飲み干したグラントが、大きくひとつ息をついてから私に言う。
「どうせ、向こうだってお嬢さんが一人で来るとは思っていないさ」
……まあ……確かにそうかもしれない。
彼はグラントと同じように物事の『先読み』に長けた人間だもの。
私は手に持ったまま未練がましく底に残った澱を眺めていたワインゴブレットをテーブルに置き、透明な水を湛えたグラスから生ぬるくなったお水をゴクゴクと飲んだ。
グラントにしてもグラヴィヴィスにしても私とは頭の構造が違いすぎて、時にその思考を測りきれない人間だ。
「私……グラヴィヴィスが何を考えているのかさっぱり分からないわ」
この夏ノルディアークで再会してからのあれこれを思い返していた私は、途方にくれたような気持ちでつい弱気な呟きを口にしてしまう。
テーブルの向こうでグラントが立ち上がる。
さっきまでの不機嫌さは消えて、苦笑いのような表情がその顔には浮かんでいた。
「難儀な性格だとは思うが、一度分かってしまえば分かり易い人間なんじゃないかと思うよ、俺は」
あまり酔っていないつもりでいたけれど、なんだか頭がふらついてなかなか椅子から立ち上がれない私にグラントがその大きな手を差し伸べてくれた。
杖の先は床にきっちりついているのに、持ち手に掛けた手がふらついて力が篭められない。
……少し飲みすぎてしまっているようだ。
今日のところは自力で立ち上がるのを諦めてグラントの手を取ると、フワリと軽くその広い胸に引き寄せられて立ち上がる事が出来た。
「グラントは付き合いが長いからそういうことを言えるんだと思うわ。……それに、貴方は頭がいいのよ。だけど凡人の私にはあの人が何を考えているか分からないから混乱させられっぱなしで……。申し訳ないけれど……ちょっとだけ腹立たしく思ってしまうこともあってよ」
酔いにまかせて拗ねて本音をこぼす私を、グラントはさっきよりもはっきり『苦笑い』と分かる表情で見下ろしながら
「本来ならばグラヴィヴィスに同情の余地なんてないんだが……少しだけ可哀想に思えてきたよ。……だからと言って絶対にフォローするつもりは無いけど」
そう言った。
「可哀想? なの? グラヴィヴィスが?」
ふらつきつつもグラントに支えられて寝室へと私は向かう。
『主管枢機卿』なんて立場にあるグラヴィヴィスを表現するには『可哀想』なんて言葉、あまりにも似つかわしくなくて心の中に首をかしげた。
「頭の回転はいいけど、不器用だ。彼は……自分の能力を過信して、それに振り回されているように俺には見えるよ。確かに切れる人間ではあるけれど、自分の感情を優先するか、実務的に割り切って『事』を進めるべきかを決めかねたまま動くもんだから……しまいにはお嬢さんに『腹立たしい』なんて言われて……。いや、フォローはしないよ、俺は」
グラントは『フォロー』がどうこう言うけれど、私にはやっぱり彼の言うことは全く意味が分からない。
グラヴィヴィスが振り回されている『感情』と言うのは、どういうものなんだろう?
「事情はよく分からないけれど、落ち着いて見えていてもグラヴィヴィスがまだ若いって事は私にも分かるような気がしてよ」
実際彼はまだ私とそう変わらない二十代の半ばの年齢だ。青臭い部分があってもおかしいことではない。
ただ、立場を考えた時それが『許されない』だけなのだ。そういう意味ではグラントの言う『可哀想』と言う言葉が理解できないわけではない。
……まあ、グラントがグラヴィヴィスの何を指して不憫だと言っているのかは分からないのだけれど……。
寝室の扉を開けたグラントの足元は、私ほどでないにしろ少しばかりふらついているようだった。
ふわふわと足取りの覚束ない私を彼がゆっくりと寝台の縁に腰掛けさせてくれた直後、頭上から大きな溜息がひとつ。
「なんだか話してる内にアイツの事が益々哀れになってきたような気がしていたけど……やっぱり同情の余地は一切無いな」
右から左へと際限なくスライドしては戻って行く視界の中、グラントがベッドに背を向けて明るい隣室へと向かうのが見えていた。
気のせいじゃないのなら、さっきよりも随分とその足元はふらついているよう。
つけっぱなしの室内のランプをいくつか消して、ひとつだけを寝室に持ち込むのが見えた時には、私の頭はベッドの上に脱力して落ちていた。
やっぱり、完全に飲みすぎだ。
……それでもなんとか両足から室内履きの靴を取り去ったのは、自分ながらによく頑張ったと思う。
「折角明日からは少し仕事も楽になるという夜に、しかも、髭剃り道具だって部屋にあるのに」
グラントがブツブツ言う声が近くなったり遠くなったりする中、ベッドの縁から下に零れたままの両足が優しく抱えられ、上半身と一緒に柔らかな褥の上に横たえられる。
体の締め付けが無くなったのは彼が衣服を緩めてくれたからだろう。
続いて自身も衣服を脱ぎ捨てているらしい衣擦れが聞こえ、夏の薄い夜具が体の上に引き上げられるのとワインの香りのする吐息交じりの『ボヤキ』が耳元に。
「奴のせいで俺もお嬢さんも飲みすぎたじゃないか。…………畜生め」
最後の上品とは言いがたい罵り言葉は、もしかすると半分以上夢の国へ足を踏み入れていた私の気のせいだったかもしれない。
たぶん、そうだと思う。
***
「随分とご多忙そうでいらっしゃるんですのね」
場所はサリフォー教会の古い教会。ルルディアス・レイの外周東側にあるこの国で二番目に古い教会だ。
外周西側には西側世界に現存する中で最も古い女神サリフォーの教会もあるが、そこは教皇の派閥勢力が使用しているらしい。
最古の建築物ではないそうだけれど、本当に古い石組みの建物だ。
ルルディアス・レイの街中にあるブルジリア王国建国後に建設された教会の方が、規模も大きく壮麗で威圧感のある建築物が多いけれど、ここは素朴さの中にもなにか大らかで偉なものを感じさせる雰囲気がある。
目の前にはノルディアーク以来のグラヴィヴィスが僧服に身を包んで佇んでいた。
「確かに、多忙といえば多忙です」
身振りで椅子を私やグラントに勧めながら、グラヴィヴィスは計り知れない笑みを薄く口元に浮かべたままに言った。
私が彼を『多忙』と思ったのは、彼へのアポイントメントをとる事がなかなか難しかかったせいだ。
シェムスを使いに出したのがディダに会った翌日で、それから三日目の今日でなければ面会は叶わないとのサリフォー教会事務局の返答を持って、シェムスは帰ってきた。
「いらして貰いたいと此方から申し出ておきながらこんなにお待たせして、大変申し訳なく思っています。
……今現在、面会の申し込みが非常に多くて……。信用できる身元の人間だけしかアポを入れぬよう事務方に申し渡しているのですが、その篩い分けに結構な時間がかかってしまうんですよ」
グラヴィヴィスの言葉から推測するに、現在彼と面会したがっている人間の中には……どうも『ありがたくない面子』が多いようだ。
もっとも僧衣姿のグラヴィヴィスはノルディアークで会った貴公子風の彼とは違い、柔和さの中に妙な威厳と落ち着きをアルカイックな表情として鎧っているから、彼の目つきや表情から何かを見出すのは難しいかも知れない。
そんな事を思いながら彼を見ていた私の前で、グラヴィヴィスがふと笑みを深める。
笑みは彼の印象に劇的な変化を与えるようだ。老成した雰囲気が薄れ、年齢相応の青年らしさが現れる。
「フローティア殿よくいらしてくれました。ありがとうございます。……………………それに、バルドリー卿も」
グラヴィヴィスが私の手を取り、儀礼どおりにその甲に唇を落とした。
なんだかすぐ横にいたグラントが変に強く鼻から息を吹き出す音が聞こえ、私は驚いて一瞬だけそちらに目を向ける。
どうかしたのかと思ったけれど、気のせいかしら?
グラントは普段となんら変わらぬ様子で……いいえ、普段よりもむしろ上機嫌そうに口元に笑みを浮かべ目を細めている。
「……珍しいですねグラヴィヴィス様。僧衣の貴方が……いや、サリフォー教会の司祭や司教それに枢機卿が女性の前に膝をついてその手に接吻をする場面など、私は初めて拝見しましたよ」
「あまりに忙しくて外出が難しい状況でしたので、失礼ながらこちらに足を運んでいただき私もこうして僧服を纏っておりますが、フローティア殿にお会いしたかったのは『私用』あっての事なのです。ですから挨拶も『私人』としての礼節に従わせていただきました。まさか、バルドリー卿まで来てくださるとは思いませんでしたが。……卿にもお話ししておきたい事もありましたので、丁度都合が良かった……」
柔和な表情のグラヴィヴィスが私達に、再度椅子を勧めてくれた。
マホガニー製の重厚感の有る椅子は青地に花と銀のストライプが落ち着いた印象の錦の平織り張りで、とても座り心地の良いものだった。
さすがに由緒ある時代のたった教会だけあり、立派な応接室だ。
家具調度の類は相当に質の良い物で揃えられている。
特に執政用の大きな両袖机などは、どうやってこの部屋に運び込んだのかと首を傾げたくなるくらい大きくて重そうだ。
それに家具の中でももうひとつ目を引くのは、大きな櫃。
周囲に置かれた独特な形の丈の高い燭台などから察するに、祭具や法具を入れる為の物だと思うのだけれど、蓋の全面には細密な彫刻が施されていて真面目に見つめていると眩暈を起こしそうなくらいだ。
幸い上から女神サリフォーの翼を意匠する錦の布が掛けてあるから、その彫刻のすべてが見えるわけじゃないけれど、もしもこの彫刻を『記憶』しておくように言われたら、さすがにちょっと気持ちが悪くなるかもしれない。
それにしても大きな櫃だ……。
大の大人が二人くらいは入れるんじゃないかしら。
……もちろんあんなせま苦しいトコロに入るなんて願い下げだけど……。
古い石組みの壁面はさすがに暗い印象を与えるけれど、美しい色糸で綴られたタペストリーや絵画が陰気になりそうな空気を華やかな色彩で彩っていた。
教義については完全な門外漢だから詳細は分からないが、タペストリーや絵画のモチーフは女神サリフォーに関しての説話の類から採られたものだろうことは想像がつく。
世話役と思しき若い聖職者見習いがお茶を運んでくれて退室した後、グラヴィヴィスが口を開いた。
「今日フローティア殿に来ていただいたのは、過日のノルディアークでのお礼を改めてさせていただく為なのですが……」
私は言葉の後で立ち上がり大きな机の方へと歩いて行くグラヴィヴィスの背に向け、慌てて言った。
「そんな事、お考えいただかなくても結構ですわ。……だって、あんな場に遭遇しては誰だってなんとかしようと思うのが当たり前だと思いますもの。……それが偶々上手く行っただけすわ。それに、貴方から『お礼』はいただいているではありませんか?」
だって、アグナダ公国の絡む商館にグラヴィヴィスからの『趣意書』は大きなチャンスを貰ったと同じ事だもの。
「あれは最初からバルドリー卿にお渡ししようかと思っていたものです。確かに貴女にお助けいただいた事はそのきっかけにはなりましたけれど……。そういう意味ではまだ貴女や貴女の従者殿には感謝の気持ちを十分に表せたとは言えませんゆえ……」
そんな事を言いながら、グラヴィヴィスは両手に二つの品を手に私達の前に戻ってきた。
「フローティア殿の勇敢なる従者殿にはこちらを。主人を護る為に剣術を習うとは大変に素晴らしい従者殿ですね」
彼が私の前のテーブルに置いた物のひとつは剣を腰に吊る為の剣帯だった。
造り自体はとてもシンプルだけれど、良い皮を使った丈夫そうな品物だ。バックルの部分には月桂樹の輪とシェムスの名前のイニシャルが刻み込まれている。
ノルディアークの城で刺客に襲われた後、グラヴィヴィスとシェムスは殆ど会話などしていない筈だった。少なくとも私の覚えている限りではそんな記憶は無い。
だとすれば、シェムスが私を護るために剣術を習い始めたという話しは、彼自身かその周辺の人間から聞いたに違いない。
「これは私から従者殿……シェムスへの感謝の気持ちです。彼にお渡しいただけるとありがたい……」
この品物に関しては私には遠慮する権利は無いだろう。
シェムスはグラヴィヴィスからのお礼の品を受け取るべきだと私も思う。
「……ありがとうございます。シェムスに代わって私からもお礼を申し上げますわ。これは後ほど彼に必ず渡します」
「是非従者殿には私が心から感謝しているとお伝えいただきたい。……そしてこちらはフローティア殿に……」
グラヴィヴィスは剣帯の横にブルジリア王国の王家の紋が彫りこまれた白い木の箱を置いた。
大きさは8インチ×1フィート半程もあるだろうか?
決して小さな箱ではないが持ってきた時の様子やテーブルに置いた音からすると、中に入っている物はそれほどの重さはないように見える。
だけど私はグラヴィヴィスが箱を開いて見せてくれた物を見て、驚いた。
真っ黒なごつごつした石が幾つか、そこに納められていたのだ。
白絹の上に艶の無い角張った表面を見せるその石は、扱いから見てなんらかの宝石の原石だろうと思う。
でも、こんな大きな石がいくつも入っているのに、なぜテーブルに置いた時にあれほど軽い音しか立てなかったかが不思議だ……。
「この国の『琥珀』は西側世界では結構古くから有名なのですが、私の父はその事もあって幾つかの琥珀の名品を収集していたのです。これもその一つになりますか……。フローティア殿は『黒琥珀』……『ジェット』と言う物をご存知でしょうか?」
そう言ってグラヴィヴィスは石の一つを人差し指と親指で摘みあげた。
彼の動作から推して、艶の無い漆黒の石はやはりとても軽そうだ。
「これも琥珀なんですの?」
「この国の物ではありませんが、琥珀の一種だと言われているものです。一般的に見られる琥珀同様とても軽い石ですよ」
差し出された黒琥珀を手の上に載せると、グラヴィヴィスの言うとおりとても軽い。いくら軽いと言われてもオニキスや黒曜石のような貴石の重さを想定してしまっていた私には、その軽さは驚きだった。
私は私のすぐ横の椅子に腰を下ろしているグラントに黒い琥珀の原石を手渡す。
「……良質のハードジェットですね」
石を手の中で観察していたグラントが言う。
「宝石には門外漢ですから私にはわかりません。父王が集めていたものなので恐らくそれなりの品質のものだと思いますけれど……。『ジェット』には魔除けの意味があると物の本で読んだ事があります」
グラントの手から黒い琥珀の原石を受け取ったグラヴィヴィスは、それを元の箱の中に収めるとその大きな箱を私の方へ押し出した。
「……女性に宝石を贈るのに原石をお贈りするなど、不調法極まりないとお笑いになられるかもしれませんが、私にはフローティア殿がどのような意匠のものをお好みになるか分かりません。原石のままお渡しすれば貴女のお心に叶う意匠にいかようにも加工できる事と思いました。……バルドリー卿はこれを細工できる宝飾職人を数多く抱えておいでですし。ノルディアークで私が遭遇した災禍をフローティア殿までが蒙らないよう、こちらを是非受け取っていただきたいのです」
私は私の前に差し出された箱とグラヴィヴィスのにこやかな笑みを見ながら、内心とても困惑していた。
ただの『お礼』としてこの黒琥珀の原石を贈られたのなら断り易いのだけれど、厄避けとしてと言われてはちょっとお断りしづらくなる。
「ですが……折角グラヴィヴィス様のお父上様が遺されたものですのに……」
「私が持っている限り、この石は見てのとおりのただの黒い石塊のまま死蔵される事になるでしょう。……それに」
グラヴィヴィスの目線が私からちらりと隣に座るグラントに動いたように見えた。
「もしもこれを受け取っていただけないのでしたら、私は自分の命の恩人として貴女に一生心を縛られ続ける事になるかもしれません……」
黒琥珀の価値がどれほどの物なのか私には分からないけれど、一生私に対して『負い目』を背負い続けると言われては、ますますもって断りづらいではないか……。
「フロー……受け取って差し上げてはどうだ?」
ふっと息をつく気配の後、グラントがそう言った。
「『俺が』責任を持って『キミに似合う物』を作らせよう」
穏やかな口調で笑みを浮かべる彼の雰囲気に……何か不自然な硬さを感じたのは気のせいだろうか?
……別段グラントが不機嫌になるような流れではなかった筈だもの、きっと私の考えすぎに違いない。
なんだかたいした事などしていないのにこんな立派なものを戴いてしまっていいのか……との気持ちは拭い去れないけれど、なし崩し的に私は黒琥珀の原石をグラヴィヴィスから受け取ることになった。
まあ……グラントも「受け取って差し上げてはどうだ?」と言ってくれるくらいだから、貰ってしまってもいいのかもしれない。
人間対人間の社交的交流に慣れていない私よりも、きっとグラントの方が世の中の常識は弁えているはずだもの。
……そういうわけで、グラヴィヴィスがディダを介して私に会いたがった『用事』はこれで終了した。
後は、さっき彼が言ったとおりグラントに対する何かの用件とやらを切り出すのを私とグラントは待ったのだが……。
暑い季節の事、開け放していた窓の外からなにやら騒がしい気配が応接室に聞こえ始めた。
何者かが言い争う気配……。
それほど近い場所と言うわけではなさそうだが、そう遠い場所でもないようだ。
……同じ建物の中……教会の入り口付近からのようだけれど……。
「……ちょっとお待ちになってください……」
騒ぎに軽く眉根を寄せたグラヴィヴィスが応接室の入り口扉を開け、廊下の奥、私達もここに案内される時に通ってきた入り口の方向を確認する。
廊下の先からグラヴィヴィスの世話係の青年が小走りにやって来て、何事かを耳打ちした。
「バルドリー夫妻の後の面会はメルドン司祭の筈ではなかったのですか?」
「……それが、どうやらカーテルナー氏が司祭のお名前を勝手に使ってアポイントメントをお取りになったようで……」
多少潜めれてはいても私達が座っている場所は応接室の入り口からさほど離れているわけではない。
しかも廊下の扉を開いた事によって窓へ向けて風が抜けて行くのだ。風上からの声は耳に届きやすい。
察するに招かれざる誰かが司祭の名を使ってグラヴィヴィスに面談にやってきた……と言うことのようなのだが……。
グラヴィヴィスを待つ間冷めかけのお茶で喉を潤していた私はこの時、この後の展開が思わぬものになるとは微塵ほども考えはいなかった。
あんな窮屈な思いをまたする事になるのなら、すぐにでも席を立って私だけでも逃げ出していれば良かったのだ。
まったく……グラントってば……!




