『銀の杖と北の方舟』13
私はこれまでの人生で二度、浚われた事がある。
一度はエドーニアでグラントに。
二度目はこのルルディアス・レイでディダとバルテスさんに。
そして今まで二度、木の箱に荷物のように詰められた事があった。
一度目はエドーニアから港町エルルカへ向かう道中。
二度目は大型船舶『レディ・ダイアモンド』でホルツホルテ海を渡り到着したフィフリシスへと上陸する際。
物扱いで木箱の中に詰め込まれるなんて決して楽しい経験とは言えない。
まあ……そんな目に遭うなんてそうそうあるわけじゃなし、最近はあの屈辱的な気分を思い出す事も稀になりつつあったのだけれど……。
何故だか私は今、ルルディアス・レイで箱詰めになっている。
いくらブルジリア王国の緯度が高くても、夏のさなかに箱の中に詰められて喜ぶような趣味など私にはない。
しかも……ただでさえ閉塞的でせま苦しい空間に、どうしてグラントなんかと一緒に入らねばならないんだろうか?
「……グラント、ちょっと貴方もう少しそちらに足を引っ込めて下さらないこと!?」
「無理だ……フロー。足をそちらに曲げなけりゃ全身が収まりきらないんだから……」
この国で二番目に古いサリフォー教会の応接室、祭具や法具を保管するための櫃の中に私達は無理やりに体を押し込んでいた。
あちこちを曲げてなんとか体を納めたところに、グラヴィヴィスが櫃からはみ出していた私のドレスのスカートをぐいぐいと押し込み蓋を閉める。
……もちろんきっちりと蓋を閉められてしまっては息苦しい上に外部の音も聞こえなくなってしまうから、十分な隙間はとってある。
外から見て『蓋が開いている』ことに必要以上に目が行かぬよう、グラヴィヴィスはその隙間に元から掛かっていた錦の布を被せて隠すと
「そう話しを長引かせるつもりはありません。どうぞ、しばらくお静かに願います……」
そう言って櫃から離れて行った。
かろうじて錦の布を通して外の明かりが薄ぼんやりと入る櫃の中、聞こえるのは廊下を慌しく歩いてくるらしい二つの足音と性急なノック。
「……カーテルナーさん……このような事をされては困ります……っ」
「まあまあ、どうしてもグラヴィヴィス様にお会いしたかったんだ。このくらいの方便は許してもらわないと」
扉の外にいるらしい『カーテルナー氏』とこの教会の事務方を務めるらしい若い聖職者の声の後、応接室の扉の開く気配があった。
扉から窓へと流れる空気に微かに錦の布がそよぐ。
「カーテルナーさん……私との面談は暫くの間ご遠慮いただきたいと再三申し上げた筈ですが……」
「いや分かっておりますとも。ただ、やはり今一度枢機卿様には私どもの考えをお聞き願いたいと思いまして」
ドア越しにくぐもっていた声が、くっきりと聞こえるようになった。
どうやらカーテルナー氏はグラヴィヴィスに応接室の中に招じ入れられたらしい。
……私は二人の声を聞きながら、一体どうしてこんな間抜けな事になっているのかいまさらながらに驚きあきれつつ考えていた。
ほんの数分前までは私とグラントは『お客人』として応接室の座り、心地の良い椅子に腰を下ろし、多少冷めてはいても良い香りのするお茶をいただいていた筈だ。
そこへ……現在の『お客人』……どうやらそれも『招かれざる客』であるところのカーテルナー氏が騒がしく押しかけてきて……。
グラントがいけないんだと思う。
それにグラヴィヴィスも。
グラヴィヴィスは招かれざる客人カーテルナー氏が職員になんとか足止めされている騒ぎに驚いて、唖然としている私……いいえ、グラントに
「貴方にお話ししたかったのは他でもない、カーテルナーさんらの事なのですが……。道理や礼節を説いても暖簾に腕押しの相手なのです。どうしたものでしょう、もう暫くすると待つ事に痺れを切らした彼がこの部屋へ押しかけてくるかも知れません。ご説明しているような余裕はないようです。……一度彼の話を聞けば私が何をお伝えしたいか分かってもらえると思うのですが……」
そう言ったのだ。
現実的に考えてカーテルナー氏とグラヴィヴィスの会話を一度聞けば……と言うのは、『例え話』の類であると考えるのが普通だと思うのだけど、間違っているだろうか?
それが何をどうして『じゃあ何処かに隠れて聞けばいい』と言う流れになるのか、私にはさっぱり理解出来ない。
言い出したグラヴィヴィスもどうかしているし、それに同意するグラントもおかしい。
かくて……私とグラントとはこの応接室の中で唯一人間が、それも大人の人間が二人は入る事が出来る……などとさっきまで私が暢気に考えていたあの櫃の中へ身を潜める事になったのである。
それにしても、私が馬鹿だった。
盗み聞きなんて下品な振る舞いグラント一人に任せて、私はさっさと裏口からでも退出してしまえば良かったのに、どうして背が高い上こんな……胸板やら腕やらが筋肉でかさばったグラントと一緒に櫃に入ったりしたのかしら???
長い足を半ば折りたたむようにしているせいで、私の下ろしたてのチュールレースのパニエはきっと潰れてぺしゃんこになっているかいびつな形に凹んでいるに違いない。
幸い櫃の中に普段収められているらしい祭具や法具は明日執り行われるという祭祀の為、その殆どがホールに持ち出されているそうだけれど、まだ幾つかの銀器や銀杯が硬くゴロゴロと体の下を不愉快に刺激している。
それでもグラントが気を使って私の首の下に腕を入れてくれているから顔や頭は護られているのだけれど、こんな箱の中で下手に密着していると、暑苦しい事この上ない。
イライラしていると頭に血が上って暑いので、なんとか心を落ち着けようと私は眼を閉じた。
どうせ目を開けていたって薄ぼんやりした明かりと無理やり押し込まれたスカートやパニエが折れ曲がってごわついているトコロが部分的に見えるだけなんだから、いっそ何も見ない方が精神衛生上良いような気がする。
「最終選考会の事でしたら前にも申し上げたとおり、我がサリフォー教会としては神の意思に則って『公正な』選考をするとしか申し上げられませんよ。カーテルナーさん」
たぶん櫃の中でこれを聞いている私達にわかり易いようにであるだろう。
グラヴィヴィスは最初からカーテルナー氏がどういった用件で来ているのかを最初に言ってくれた。
「もちろんですとも枢機卿様。ただですね、女神様の意向に副うのはまことに結構でございますが、それならなおさら私どもの提出した商品をお選びになる事こそがサリフォー様の教義を栄えさせる事に繋がるのではないか……と、その点を頭の隅に置いての選考を願いたいわけでございまして」
つるつると良く回るらしい口から発せられた台詞を聞いて、私は唖然とした。
この人はどうやら『最終選考会』に残った工房の関係者らしいけれど、こんな……選考会を後数日後に控えたこの時期に、ここまであからさまに手心を加える事を要請をしに来る人間がいるなんて……あり得ない。
それも……もしも私の考えすぎでないのなら、この人は手心を加えてくれたならそれなりの見返りを教会もしくはグラヴィヴィスに対して行うと言っているのではないだろうか……?
「どの作品が選ばれたとしてもそれが優れた意匠のものであれば、それが教義を広めるきっかけにはなると信じております。……ことさら貴方のところの物を選ぶべきだと仰るのは一体どういった理由からでしょう?」
はっきりと落ち着いた口調のグラヴィヴィスに声を立てない、勘に触る笑い声が答えた。
「……いやぁ、そこはアレでございますよ。枢機卿様はこれまで私ども業界とはあまりお付き合いはありませんでしたしょうが、世の習いとでも申しますか……。そういうのが色々ございますでしょう。こちらもこれまでのような台所事情ではないでしょうし……ねぇ?」
「……私がそう言ったお話しを好まない事は、前回申し上げたかと思うのですが……」
「いやいやいやいや……もちろん! 存じておりますとも。高潔な聖職者としての枢機卿様の御名が汚れるような真似を私どもがするわけがありません。それはキチンと筋を通させていただきます。……なにしろ、私とて敬虔なサリフォーの信者でございますから!」
なんだか……閉塞感や暑さのせいではなく、とても気分が悪くなった。
この人はどれだけグラヴィヴィスを侮っているのだろう……?
もちろん私だって商業の世界が綺麗事だけで成り立っているわけじゃない事くらい分かっているつもりだ。
だけど……ちょっとこれは……。
後からグラントに確認してみたのだけれど、カーテルナー氏が言う『筋を通して』……と言うのは、どうやら請負った仕事の正規の受注額とは別に『リベート』的意味合いでのお金を、カーテルナー氏若しくは彼に近しい人物の名前でサリフォー教会へと寄進します……と言う事のようだった。
それも恐らく……結構大きな額を。
当然教会へと流れる金額の分、カーテルナー氏の関係する工房から納品される商品の売り上げ額は目減りする事になり、商売としての『うまみ』が少なくなってしまうわけだが、それを防ぐため納品する品物の品質を落として原料費やコストを削減する方向へ行く事になるのは世の常で……。
予定よりも品質の劣った商品を納品する事を黙認せよ……と言う要求も、カーテルナー氏の言葉には含まれるのだ。
……選考会へ提出する『試作品』と納品する品物の間には品質に雲泥の差が出来るということ。
いくら教会が女神サリフォーの翼の意匠の使用許可を出したのは『布教』の一端であると言うのが方便とは言え、そこで出来上がった品物が粗悪な品質の子供だましの玩具のような物だったりしたら、『方便』が通じない以上に未だに根強くサリフォーを信仰している信者を馬鹿にした行為じゃないかと思うのだけれど……。
そりゃあ……グラヴィヴィスが最終的に目指している地点を考えれば、信者を馬鹿にした玩具もどきの品物を世の中に氾濫させるのも手の一つかもしれない。
だけれど、急にそれを行うのは素人の私が考えても必要以上の反発を買うやり方のような気がする。
「筋を通すとおっしゃって頂けて安心いたしましたよ、カーテルナーさん」
静かで落ち着いた口調ながらもはっきりと一言一言が通る声でグラヴィヴィスがそう言った。
一瞬、私は彼がカーテルナー氏のある種の『贈賄』の提案に乗るつもりなのかと驚いたが、続く言葉に一瞬とは言えそんな勘違いした自分を恥ずかしく思った。
「私どもも今回の事ではきっちりと筋を通したいと考えているのです。……選考会に残った『意匠』はすべて我が教会の趣意書に適った作品案だけです。当然然最終選考会での判断基準も、趣意に適いサリフォー教会の今後の『顔』に相応しい作品であるという一点でのみ選考するつもりです。……そういうわけですのでカーテルナーさん、今ここで私と貴方とが話すべき事はもはや何も無いようですね。どうぞ、お引取りを。……勿論カーテルナーさんもわざわざこのような手段を使ってまで此方に、私に会いにこられたところを見ると分っておられるかと思いますが、私以外の『選考委員』への接触を図るのは不可能と考えていただいて間違いありません。無駄な努力はなさらぬ方が賢明かと存じます」
足音と共にグラヴィヴィスの声は移動し、扉が開く気配がする。
もう一つの靴音がそれを2~3歩追った。
「誤解なさらんでください枢機卿様。も、もちろん今度提出する試作品は教会のお眼鏡に適うような品物である自信はありますとも……っ。うちの工房の者も太鼓判を押す出来きですし……それにドランダード商会のもなかなかの出来だと耳にしております。もしうちのが選ばれんのでしたら、向こうの物にしては如何ですか!? 少なくともサゼグやら新参でまだ碌な商売歴も無いような怪しいトコよりは良い物をお出しする自信はありますから……!」
「……ここでお話しを聞いても仕方が無いと先ほども申し上げたはずですよ、カーテルナーさん。ところで、ドランダード商会のことですけれど……私どもの調べではどうやらカーテルナーさんの工房と母体企業は同じなのではないですか? お渡しした趣意書の添付書類をご覧いただければ分かるかと思いますが、意匠案は一社に付き一案と明記されている事をご理解いただけていなかったのでしょうか? 今回に限って目を瞑りますけれど……これ以上何かおっしゃるのでしたらその限りではありません。よろしいですね。……バルテス。カーテルナーさんがお帰りだそうですよ。門の外までお送りしてください……!」
グラヴィヴィスのこの言葉の後多少ばたばたとしたものの、カーテルナー氏はフォンティウス現王の護衛を務めていた過去を持つあの立派な体躯のバルテスさんや、何人かの聖職者達に伴われて去って行った。
二人が入った櫃の蓋が開けられグラントに助けられながら上半身を起こした時、私の頭は今あったアレコレがごちゃごちゃと整理しきれない状態だったのと、息苦しい空間に……この夏の最中に閉じ込められていたせいとで酷くぼんやりとしていた。
全身汗で湿っぽくなっているし髪の毛も乱れている。
グラヴィヴィスとグラントの二人の手を借りて櫃の外に降り立って見ると、ドレスは見る影もなく皺だらけで形も崩れていた。
ノルディアークの城に滞在していた時着用していたような上等すぎる服は着ていないけれど、それにしたってこの格好はあんまりだ。
汗ばんだ腕に沿ってまくれあがった袖を引っ張り下げ、歪んだ胸のリボンと格闘する間、グラントとグラヴィヴィスは今あったこととかつてあった事とを話し始める。
グラントは形の崩れた上着を脱ぎ捨てジレの前ボタンを全部はずし、汗で背中に張り付いたシャツの袖を捲り上げた
……男の人はいい。
ある程度、衣服を脱ぎ捨てて暑さを和らげる事ができるもの。
だけど私はと言えば皺が寄ってくたびれた形になったドレスを脱ぐわけにも、形が崩れた上に暑いことこの上ないチュールのパニエを脱ぐわけにも行かないんだから。
櫃の中で握り締めていた小さな手提げから出したハンカチで鼻の頭の汗を拭いながら、なんとも言えぬ情けなくも腹立たしい気持ちを抱えている私を、もしもお父様が見たならばどう思われる事だろうか……。
シェムスには「私もグラントも決してお父様に顔向け出来ないような事はしていない」と言ったけれど、これは「顔向けできない」わけではなくとも出来れば「お見せしたくはない」姿のような気がする。
「いまお聞きになったような事を言いに来る手合いが、この所非常に多いのです。……最終選考会の選考委員達は外部に名前を伏せていたのですが、どこからかそれが漏れていました。身内の恥を晒すようで情けないのですがどうやら教会内部に情報を漏洩させている人間がいるようです……」
情報の漏洩を行っている人物については現在調査を行っているし、名前の漏れた選考委員達は外部からの接触を完全に遮断して最終選考日までは表に出さぬようにするそうだ。
「ウチの工房からも贈賄の打診をしにお邪魔させるべきだったかな?」
冗談交じりの苦笑いでグラントが言った。
こうなると変な誤解を受けたくないなどと、どの名前でグラヴィヴィスにアポを取るべきか悩んだ事がばかばかしくなる。
「……ご勘弁ください……」
力ない笑みを浮かべるグラヴィヴィス。
「洒落や冗談で済む状況なら良いのですが、加熱し過ぎた一部の業者がなにやらきな臭い手段を講じて競合他社を脱落させたとか、させようとしている……などと言う話も耳に入ってきております」
そう言えば……アルドンウェイで嫌な噂をいくつか耳にしていた事を私は思い出す。
盗みに恫喝、職人を襲撃して怪我をさせた……などの話だ。
だけど実際の事態は私が聞いていたものよりも一層深刻な物のようだった。
とりあえず今は『人死に』は出ていないけれど、いつそんな事件が起きてもおかしくないのだとか……。
「こちらでも事態の収拾をはかるべく鋭意努力しておりますけれど、バルドリー卿の方もどうかくれぐれも自警自衛をお願いしたいのです……」
どことなく疲れた様子のグラヴィヴィスに見送られ、私達は教会を後にした。
なんだかとても疲れていた。
体は疲れているのだけれど、頭の中ばかりはやけにグルグルと動いているような感じ……。
グラヴィヴィスとの面談を司祭の名を勝手に使って強行すると言うだけでも考えられない無法な話しだが、さっきのカーテルナー氏はまだまだ言動的に甘い部類に入るのだとか。
……サリフォー教会はこの春、グラヴィヴィスや王室側の動きによって様々な利権を奪われ力を失っているとは言え、やり様によってはまだまだ金の卵を生み出す鶏のようなおいしい獲物であるらしい。
いい歳をした大人が二人、櫃の中に潜んで盗み聞きするなんてみっともない真似をさせられたのは……少なくとも私にとってはとても屈辱的ではあったが、ただ言葉だけで
「このような状態です」
と聞くよりも、危機感を持つ事が出来たように思えた。
……まあ……この後のことを考えたなら、私の抱いた危機感なんて全然甘いものだったのだけれど……。
シェムスが駆る小型の貸し馬車に揺られ倉庫外の裏にある商館へ向かう道、私は小さく嘆息する。
「……浅ましいものを見たわ」
実際は『見た』ではなく『聞いた』ではあるけれど、疲れた気持ちで吐き出す私にグラントは慰めるような笑いを浮かべる。
「今回の『意匠案』が通れば相当大きな契約が入るんだ。……しかも、それを出発点にして今後同じ『意匠』での商品展開だって考えられる。……この国ではあの意匠は特別な意味を持つからね。それに、外の国から訪れる人間にとっても女神サリフォーの翼はブルジリア王国を象徴する意匠だろうと思う。……俺達他国の人間が考えていた以上に、皆加熱していたという事だな」
「……それにしたって、仮にも王族であるグラヴィヴィスに対してあんなあからさまな利益供与の提案なんて……普通なら考えられないじゃない?」
「王位継承権の返上。……それに、フォンティウス王に王子が誕生している事によって彼自身が王室権力から離れているように見えるのが原因か……。最終選考会の選考委員への接触手段が無くて、彼しか窓口になる人間がいない状態も拍車をかけているんだろうが……」
チラリとグラントの視線がくたびれたドレスを気にして皺を伸ばそうと格闘する私へと向けられた。
「高潔な主管枢機卿様も、人の子だったと言う噂がたったのも効いているんだろうなぁ……」
私とグラヴィヴィスとの不名誉な噂話しを持ち出すグラント。
「……最初から高潔な主管枢機卿なんて人物は存在しないんですもの。どこの聖職者が盗み聞きを推奨したりすると言うの? ……高潔な枢機卿もいなければ気品溢れる侯爵様も存在しないわよね? ……あんな箱の中に入るように言われて貴方がどうして反論しなかったのか、不思議でならなくてよ。 しかも、入るんだったらグラント一人で入れば良いものを。『何故キミは外で待っているといい』……って一言おっしゃって下さらなかったのか、さっぱり分からないわ。思いやりというものを学んで頂きたいわね」
八つ当たり気味に文句を言う私の言葉に、グラントは声を出して笑う。
「もう……っ笑い事じゃないわ。今日は別にそれほど良いドレスを着ていたわけじゃないけれど、見てよ。すっかり台無しになっているじゃない。貴方も私達が馬車に戻ってきた時のシェムスの顔を見たでしょう? 彼じゃなくてもちゃんとした身なりで教会に入っていった筈の人間が、こんな……火事場でひと労働した後のようなよれた格好で帰ってきたら、驚くし呆れるに決まっているじゃない。見てよ、この格好! 没落貴族が夜逃げでもしてきたような姿じゃないの!!」
グラントは笑いながら悪びれた様子もなしに「悪かった」と私に謝罪の言葉を述べた。
「とりあえずシェムスにはグラヴィヴィスから預かった物を進呈して、なんとか誤魔化すとして、キミの機嫌はどうすれば直るんだいお嬢さん? これから事務所に行って2~3枚の書類に目を通せば今日は上がれるから、宿で着替えてカフェで冷たい飲み物でもどうだ? ……流石に俺もあの狭い櫃の中で汗をかいたから、喉がカラカラだよ」
カフェで冷たい飲み物……。
そう言えば、応接室でお茶をいただいたけれどその後に汗をかいたから私の喉も渇いている。
「私……表通りのバラ模様の鉄柵があるカフェがいいわ。だけどグラント……」
狭い櫃の中を思い出したのか、微妙に変な角度に傾げっぱなしだった首の後ろを揉み解しているグラントの笑いの形に歪んだ口元を眺めつつ、私は言う。
「お宿に帰ったらまず、着替えの前にお髭を剃って下さらないかしら?」
『髭を剃る』で何を勘違いしたのかは知らないけれど、言った瞬間グラントが咽こんだ。
「い……いやそれは、剃れと言われたら喜んで剃るよ。勿論」
暗色の目を瞬かせ、ドレスのスカートの皺を伸ばす私の手の上に自分の手を重ねようとするグラントのその手を、私は容赦なくピシャっと打った。
「貴方そのお髭、昨日からずっと伸ばしっぱなしなんでしょう? 櫃の中でチクチク当たってくすぐったかったことよ!」
打たれた手で自分の顎をさするグラントの眉間に、ジワリと縦皺が寄る。
「これは俺が悪いんじゃなく、全部グラヴィヴィスが……」
口中でなにかブツブツ言っているグラントを無視して、私は一向に伸びぬドレスの皺を眺め、深く嘆息した。




