第3話「選ばれたくなかった伯爵令嬢」
「クラリス様、おめでとうございます」
「何がですか?」
その朝だけで、クラリスは同じ質問を七回した。
登校すると友人に囲まれた。
廊下では上級生から微笑みかけられた。
普段ほとんど話したことのない侯爵令嬢からまで、
「これからよろしくお願いいたします」
と言われた。
何をよろしくされているのか分からない。
八人目にとうとう聞いた。
「ですから、何のお話です?」
相手の令嬢が目を瞬かせる。
「王太子妃になられるのでしょう?」
「……誰が?」
「クラリス様が」
「どうしてです?」
「どうしてって」
お互いに会話が通じていない。
「アルベルト殿下がエレノア様との婚約を破棄なさったではありませんか」
「はい」
「クラリス様のために」
「はい?」
そこから先の記憶が少し曖昧だった。
確かに昨日、クラリスは小広間にいた。
殿下に呼ばれたからだ。
何の用かも知らされていなかった。
そして突然、
「私はクラリスを愛している」
と言われた。
驚いた。
驚きすぎて、何も言えなかった。
その直後にエレノアが出て行ったため、クラリスも混乱したまま帰宅した。
けれど。
婚約破棄。
自分を愛している。
だから。
「王太子妃?」
初めて全部が一本につながった。
「嘘でしょう……」
クラリスは王太子アルベルトを嫌ってはいない。
学院で何度か話した。
文学の話をした。
庭園で花の話をした。
普通に楽しかった。
少し格好いいとも思っていた。
もし同じ伯爵家の子息だったら、好意を抱いていたかもしれない。
だが。
王太子だ。
王太子妃になる相手だ。
そんな話は一度もしていない。
昼休み。
クラリスはアルベルトに呼び出された。
「クラリス」
「殿下」
「昨日は驚かせてすまなかった」
「本当に驚きました」
「だが、これでもう誰にも邪魔されない」
「何をです?」
アルベルトが笑う。
「私たちの婚姻を」
クラリスは黙った。
「……婚姻?」
「ああ」
「誰と誰の?」
アルベルトの笑顔が固まった。
「私と君だ」
やはり。
聞き間違いではなかった。
「私、殿下と結婚するのですか?」
「そのつもりだ」
「私は初耳です」
「昨日伝えたではないか」
「殿下が私を愛しているという話は聞きました」
「なら」
「私が殿下と結婚したいという話は、いつしました?」
アルベルトが黙った。
クラリスは自分でも驚くほど冷静だった。
たぶん、怖すぎると人間はかえって冷静になるのだ。
「殿下」
「何だ」
「私、エレノア様との婚約を破棄してほしいとお願いしたことがありましたか?」
「ない」
「王太子妃になりたいと言いましたか?」
「……ない」
「殿下と結婚したいとは?」
「だが、君は私を好いているだろう」
クラリスは言葉を失った。
確かに好意はあった。
でも。
「好きだったら結婚するんですか?」
「普通はそうだろう」
「王太子と?」
「私が王太子なのは変えられない」
「だからです!」
思わず声が大きくなった。
「だから、そんな簡単な話ではありません!」
王太子妃。
十二歳から教育を受けてきたエレノアですら、今も学んでいる立場。
外交。
儀礼。
政治。
慈善。
社交。
王家内部の仕事。
自分にできるとは思えない。
「私は普通の伯爵令嬢です」
「学べばいい」
「十二年分を?」
「エレノアにできたんだ。君にもできる」
その言葉で、クラリスの中から何かがすっと消えた。
好意だったのだと思う。
「殿下」
「何だ」
「エレノア様は、十二年かけて準備されたんですよね」
「ああ」
「それを殿下は、ご自分の気持ち一つで終わらせた」
「彼女も受け入れた」
「次は私に、同じ場所へ入れと?」
「君ならできる」
「私はやりたいと言っていません」
どうして分からないのだろう。
クラリスはずっと不思議だった。
昨日からずっと、誰も自分に尋ねない。
おめでとう。
王太子妃。
羨ましい。
幸せね。
皆が勝手に祝う。
自分の人生なのに。
「殿下」
クラリスは深呼吸した。
「私は殿下と結婚いたしません」
アルベルトの顔が、本当に驚いたものになった。
「なぜ」
「なぜ?」
今度はクラリスが聞き返した。
「むしろ、なぜ私が結婚すると思われたのです?」
「私は君を愛している」
「それは殿下のお気持ちでしょう」
初めて口にして、クラリス自身が腑に落ちた。
「私の気持ちではありません」
「君だって私を」
「好意はありました」
「なら!」
「ありました」
クラリスは過去形で言った。
「でも、それだけです」
「……」
「私は、殿下が私を好きだという理由だけで、自分の人生を全部変えようとは思いません」
「王太子妃になれるんだぞ」
「なりたくありません」
はっきり言った。
言った瞬間。
驚くほど気持ちよかった。
昨日からずっと胸に乗っていた重石が消えた。
「私は卒業したら父の領地へ戻るつもりです」
「聞いていない」
「お話ししていませんから」
「なぜ」
「殿下に許可をいただく話ではないからです」
アルベルトは何も言わなかった。
クラリスは一礼した。
「お気持ちを向けていただいたこと自体は、光栄です」
本当に。
昨日までなら、そう思えた。
「でも、私の人生を私抜きで決める方とは結婚できません」
部屋を出る。
廊下の窓から春の日差しが差していた。
友人が待っている。
「クラリス!」
「終わったわ」
「どうだった?」
「断ってきた」
「何を?」
「結婚」
友人の口が開いた。
「王太子殿下との!?」
「ええ」
「大丈夫なの?」
「分からない」
でも。
クラリスは笑った。
「少なくとも、誰と結婚するかくらい、自分で決めたいもの」
その日の帰り。
また一人、知り合いの令嬢から声をかけられた。
「クラリス様、王太子妃になられるそうで」
クラリスは笑顔で答えた。
「なりませんよ」
「え?」
「私、お断りしましたから」
相手は完全に固まった。
クラリスはその横を通り過ぎる。
今度こそ。
明日からは誰も、自分を勝手に王太子妃と呼ばないだろう。
それだけで、昨日よりずっと世界が広く見えた。




